山辺田遺跡の出土品(7)

山辺田窯跡や山辺田遺跡といえば、やはり色絵磁器のことに目が向きがちです。ただ、山辺田窯跡は昭和55年に国指定史跡になっていますが、実は色絵磁器生産との関わりではなく、天狗谷窯跡や原明窯跡(有田町)、百間窯跡(武雄市)、不動山窯跡(嬉野市)、それから泉山磁石場も加えた「肥前磁器窯跡」という一括指定で、初期の代表的な磁器窯跡という位置づけです。もちろん、この頃にはすでに色絵磁器の生産地論争なども盛んでしたが、発掘調査遺物などによる実証的な議論が交わされるようになるのは、もう少し後のことです。

山辺田の窯場が成立したのは1600年代頃のことで、小溝上窯跡や天神森窯跡、小森窯跡などとほとんど変わらない時期に築かれた、有田では最初期の窯場の一つではないかと思われます。当初は陶器のみが生産されていますが、当時どういう窯場間の交流があったのかは分かりませんが、多少の差はあるものの、すぐに生産技術や製品のスタイルなどに有田的な統一感が認められるようになります。唯一、小森窯跡だけが独自路線を歩みましたが、技術が継承されることなく、小森窯跡の廃窯とともに技術が淘汰されてしまいました。

写真は、山辺田の窯場の成立期頃に生産された灰釉陶器の小皿で、当時の最も主要な生産器種でした。いくらか焼きが甘いため釉薬が白っぽくなっていますが、本来は濃い緑色を呈します。重ね焼きのための胎土目痕が、内面に4か所残っています。同時期に生産された小皿類は、大半はこのタイプの丸皿ですが、縁の部分を外反させるものも、いくらか見られます。また、胴部で一度外側に折り曲げた、いわゆる折縁皿も数は少ないのですが出土します。この折縁皿の方は、白っぽい透明釉が掛けられ、鉄絵を施すことが一般的です。

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灰釉小皿(胎土目積み)

このように、無文で緑色の灰釉丸皿と白色に近い透明釉の鉄絵折縁皿を併焼するのが、重ね焼きに胎土目を使う段階の前半期に一般的な様相です。しかし胎土目積み主体の段階の後半期である1610年代前半になると、こうしたルールが崩れてきます。丸皿の腰部は写真のようなやや丸みを帯びたものから直線的なものに変わり、色の幅はあるものの釉薬は丸皿も折縁皿も灰白~薄緑の透明釉となります。また、鉄絵を施す丸皿や逆に鉄絵のない折縁皿などが多く見られるようになります。そして、この胎土目積みが主体の後半期の次に、1610年代中頃には、目積みが砂を丸めた砂目に変わり、ほどなく磁器が併焼されるようになります。
(村)H28.8.19

 

 

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