山辺田遺跡の出土品(32)

本日ご紹介する出土遺物は、染付小皿です。まあ、どう見ても、どうってこともない小皿で、外面は無文ですが、内面には見込みに桐文、口縁部にはよく瓔珞文の構成文様として描かれる崩れた宝珠のような文様が配されています。もちろん、あえてこの何の変哲もない小皿をご紹介するのには、それなりのわけがあります。よく見ていただくと分かるかと思いますが、この皿の場合、一般的に知られている「初期伊万里様式」や「古九谷様式」、「柿右衛門様式」、「古伊万里様式」などの区分に当てはめようにも、ピタッとくるものがありません。
感覚的には、外面は無文ですし、器壁や高台も厚めで、内面の文様もラフなので、初期伊万里様式に近いでしょうか。ただ、口径に対する高台径の比は2分の1を超えており、さすがにこれだけ高台径の大きな初期伊万里は通常はありません。もちろん、ちまたではまだ信じられている感のある、初期伊万里の高台径は時期とともに段々大きくなるというのは迷信みたいなものなので、初期伊万里の中で捉えようとする限り、答えは出てきません。

初期伊万里の場合、同じ時期でも窯場によって傾向は違いますし、製品の種類、たとえば中国の景徳鎮製品を意識した上級品では、多くは高台径が広めに作られます。また、それ以外でも、模した中国製品の高台径が広い場合は、やはりその種類は広めに作られることが一般的です。逆に、それが初期伊万里の技術の中で消化される過程で、小さな高台径に変わってしまう場合もあります。つまり、こうした例では、同じ種類でも、広い高台から狭い高台に変化します。このように、単純に段々どうとかというものではなく、実態はかなり複雑です。

という前提を念頭に置いていただいた上で、今回の製品を考えてみます。実は、これは山辺田遺跡で出土したものですが、山辺田窯跡の焼成品ではありません。おそらく、山辺田窯跡廃窯後の1660~80年代頃のものです。山辺田窯跡の廃窯後にも規模はかなり縮小したようですが、山辺田遺跡の場所は、工房を含む集落としては17世紀末頃までは続いたようです。その頃の黒牟田山の窯場は、山辺田窯跡の南側の丘陵に位置する多々良の元窯跡ですので、この窯場の焼成品である可能性が高いかと思います。

山辺田窯跡の廃窯のきっかけともなった1650年代中頃~60年前後の有田の窯場の再編により、黒牟田山は中級品生産の窯場となり、当時高級品であった色絵の生産は一時途絶えてしまいました。1640年代中頃に成立した古九谷様式の技術とは、ひと言でいえば、景徳鎮と同等品を作る技術で、皿の場合、一気に高台径が大きくなり、外面の体部や高台内には施文や銘、圏線などを配すルールが確立しました。17世紀後半にも、南川原山など最高級品の窯場や内山など高級量産品の窯場では、この技術の改良によって、薄くて白く、施文ルールに則った製品が一般的でした。

ところが、黒牟田山のような中級品の窯場や下級品生産の窯場では、旧式の初期伊万里の技術をベースとして、それに時々の新しい技術をいくらか付加する形で、製品が作られたのです。そのため、今回紹介した小皿のように、初期伊万里っぽくはありながら、高台径だけは少し広い製品が作られたりしています。ただし、取り込まれる新しい要素は窯場や製品によってもまちまちで、一括りにできる一様なスタイルが確立するわけではありません。ただ、概して17世紀前半の初期伊万里に比べ多少器壁が薄く、線描きも細いというか弱々しいものが一般的です。そのため、もう少し高台径は狭いものが多いのですが、見慣れてくると、おおむね識別自体はできないわけではありません。ただし、応法山や広瀬山など下級品の窯場では、現状では、古い初期伊万里と識別できないものもあります。

1680年代には展開令によって、中国磁器の輸出が復活し、特に東南アジア市場が壊滅的な打撃を受けてしまいます。そうすると、当時、東南アジア向けの製品を量産していた中・下級品生産の窯場では、国内の需要層の幅を広げるため、こうした初期伊万里に近いタイプから、見込みに五弁花を配すような古伊万里様式に一気に製品のスタイルを転化させます。つまり、特に下級品に顕著ですが、古九谷様式や柿右衛門様式的な要素を間に挟むことなく、初期伊万里様式から古伊万里様式へと直接的に変化してしまうのです。(村)H29.5.19

図1_1
染付桐文小皿

 

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