深川忠次家のおんなたち

深川製磁の創立者・深川忠次さんは明治4年(1871)1月3日、八代深川栄左衛門さんの次男として生まれました。東京商業学校に学び、明治20年に独立して陶磁器の製造販売を始めています。時に16歳。その後、明治25年(1892)に開催されたアメリカ・シカゴ万博に出品するとともに渡米。さらに、明治33年(1900)にはパリ万博に出品のために渡欧し、同37年(1904)にはセントルイス万博に佐賀県代表として渡米し視察を行っています。海外への渡航が時間も手段もままならない時代に、3度の海外渡航の経験をした忠次さんですが、出発する際には水盃を交わしての覚悟の旅でした。パリへの渡航の際、妻のモトさんがひそかに姓名判断をしてもらったところ、忠次の名では生きて帰れないと易に出たそうです。しかし、忠次さんは「親からもらった名前は絶対に変えない」と言ったことを息子の勇さんが書き記しています。

忠次さんの母は八代深川栄左衛門さんの妻・セイ(勢以子とも)さんでした。実家は上幸平の旧家で、江戸時代から続く禁裏御用の窯焼き・辻喜平次の長女でした。セイさんは明治43年(1910)3月9日に亡くなりましたが、娘であった小野島とく子さんと福田けい子さんが明治45年(1912)3月、セイさんの三回忌の折に「みのりのかほり」という、セイさん自身が手帳に綴った言葉を印刷し、有縁の方々に配布されました。そこには生前のセイさんの言葉や日々の暮らしぶりが記されています。例えば「今日一日の慎み」とあって、「一つ 今日一日三つ(君・父・師)の御恩を忘れず、不足をいふまじき事、一つ 今日一日虚言をいわず、無理なることをすまじ事、一つ 今日一日の存命をよろこび、家業を大切につとむべき事」のほか、「心の垢を洗へ」、「長者の万燈貧女の一燈」、「眉目の美醜と心の賢愚」、「足ることを知れ」等々、病で自由を失いつつも、日々の暮らしの中で子どもたちに伝えたいことを書き記しています。このような母の薫陶を受けて、九代栄左衛門さんや忠次さん兄弟は成長していきました。

また、明治初期のころの有田皿山の暮らしを垣間見ることができる長崎県千々石出身の橘常葉さんが記した有田滞在時の日記には、明治10年1月9日、授業が終わった後、深川栄左衛門家から誘いを受けて江越孝太郎さんや徳見戸長らとともに訪問したことが記されています。その折に、コーヒーやぜんざいをご馳走になったとあり、これもまた、セイさんはじめ深川家の女性たちがおもてなしをしたのでしょう。それにしても、明治初期にこの有田にはすでにコーヒーが存在したことに不思議な感じがします。もっとも、この時代には主に輸出用としてコーヒーカップなどは製造されていましたから、洋風のおもてなしも可能だったわけです。

ところで、忠次さんは佐賀市の西村家出身のモトさんと結婚しています。このモトさんもまた、姑に勝るとも劣らない賢婦人であったと伝わっています。深川製磁は有田焼業界の中でもいち早く、株式会社を組織しましたが、当初の株主は佐賀県内の錚々たる実業家揃いでした。しかし、資金的に窮地に陥ったときは配当の代わりに自家製の焼き物と引き換えに商品券を出し、また総会兼取締役会にはモトさんが心を込めた手料理を振る舞ったといわれます。

また、夫婦ともに社員の教育にも熱心だったそうで、深川製磁に勤めたあとに独立して成功した人の話をよく耳にします。それもどちらかといえば、「おモトさんに育ててもらった」という話で、妻としていかに夫や会社を支えていたかということだと思います。斯くして、深川製磁は有田焼業界をリードする会社の一つとして今に続いています。(尾)H29.6.20

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病床に臥すセイさんを見舞う家族(深川泰子さん提供)

 

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