有田の陶磁史(1)

これまで、山辺田遺跡の出土品シリーズを1年ほども続けてきました。何とか調査報告書も刊行できましたので、詳細はそちらをご参照いただければと思います。
ということで、要するに、長らく山辺田遺跡のことしか書けなかったので、そろそろ衣替えして、違うシリーズに変えたくなってきたということですが。まあ、別にシリーズものにしなくても良さそうなもんですが、毎回テーマを考えるのも大変そうという、いささか個人的な事情です。
ただ、あまり意気込んで書かないといけなそうなタイトルを付けると、繁忙期には地獄を見そうなので、あえて「有田の陶磁史」という、いかにも平々凡々とした安直なタイトルにしてみました。今までも陶磁史のことしか書いてないので、特段何かが変わるわけではありませんが、これならその時々の思い付きで、内容をチョイスできそうなので。もちろん、有田の陶磁史に関する活字や映像などは、すでにちまたに山のように溢れています。ただ、玉石混淆。生きた化石みたいな内容も相変わらず珍しくないので、ここでぼちぼち、できるだけやさしく書いておこうかということです。

まず初回の本日は、何を今さら感はあるでしょうが、基本中の基本、肥前の近世窯業で生産されたやきものの種類について、おさらいしておきたいと思います。でも、こういった基本中の基本みたいなことが、案外難しかったりもします。
肥前(佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県)に限ったことではありませんが、中世までの九州には全国的に知られるようなやきものの産地はありませんでした。陶器などのやきもの生産に関しては、完全な後進地域だったわけです。これは中国や朝鮮半島など大陸に近いため、先進的な輸入陶磁器を比較的入手しやすかったのが一つの大きな理由です。

しかし、近世に入ると、突如として全国的にも先進性の高いやきものの大生産地へと変貌を遂げます。このあたりは、具体的には後日詳しく説明します。この九州の中で、最も早く近世窯業が成立したのが肥前でした。まず1580年代後半頃に「唐津焼」と呼ばれる陶器生産が開始され、その後1610年代中頃に「伊万里焼」と称される磁器の生産も加わりました。この今日まで継承され続けている唐津焼と伊万里焼が、肥前における近世以降のやきものの二つの大きな柱です。
ただ、唐津焼も伊万里焼も近世と現代では、意味が少し違ってきています。本来は「肥前陶器の総称」が唐津焼、「肥前磁器の総称」が伊万里焼でした。つまり、有田で生産されたものであっても、陶器は唐津焼、磁器は伊万里焼だったわけです。しかし、現代ではおおむね唐津市付近で生産されたものが唐津焼、伊万里市付近で生産されたものが伊万里焼と呼ばれるようになっています。

これは、明治になって鉄道が敷設されたことが、最も大きな要因だと思います。それ以前は、やきもののような重いものを大量に全国に運搬するには、海運を利用するしか手がありませんでした。各地で生産されたものが港に集積され、そこから船で運ばれたのです。その港が唐津であり、伊万里だったわけです。つまり、唐津から運ばれたやきものという意味で唐津焼、伊万里から運ばれたやきものという意味で伊万里焼だったのです。
しかし、各生産地に鉄道の駅ができると、それぞれの駅から出荷されるようになります。これにより、それまで伊万里焼と呼ばれていた有田の磁器は、有田から運ばれたやきもの、有田焼になり、伊万里焼は伊万里から運ばれるやきものに限定されるようになったのです。これは唐津焼も同様です。
ただ、ちょっとこのルールどおりにいかない場合もあります。今でも有田焼や伊万里焼は磁器、唐津焼は陶器のイメージが強く残るので、伊万里で作られる陶器や唐津で作られる磁器は何と呼べばいいのかと言われると、ちょっと答えに窮してしまいます。少なくとも、伊万里の陶器は昔と同じで唐津焼と称していることが多いように思いますが、これは感覚的には許容の範囲です。しかし、逆に唐津製の磁器を伊万里焼というには違和感がありすぎです。これは、伊万里では江戸時代以前から唐津焼と呼ばれた陶器を生産していた実績があるのに対し、唐津で伊万里焼と称された磁器の生産がなかったことも関係するかもしれません。

ところで、先ほど説明したように、「唐津の港から運ばれたので唐津焼、伊万里の港から運ばれたので伊万里焼」と呼ばれたことは、活字や映像などさまざまなメディアで紹介されているため、すでにご存じだった方も多いだろうと思います。ただ、これは間違いではありませんが、正解でもないのです。
というのは、たとえば伊万里焼の例で説明すると、磁器を最初に開発し、かつ当初はほぼ独占的に生産したのは有田です。伊万里は後に磁器生産の大川内山が開設されたため磁器産地のイメージもありますが、磁器が開発された頃は磁器はほぼ皆無で、むしろ肥前の陶器生産の中核地でした。つまり、伊万里焼という名称ですが、実体はほぼ有田焼だったわけです。

ただ、有田は海に面してないので、同じ佐賀藩の近接する港である伊万里まで人力や馬など陸路で運び、そこから船積みしたのです。しかし、しだいに長崎県の波佐見(大村藩)や三川内(平戸藩)など、有田周辺の他藩の産地でも多くの磁器が生産されるようになります。それらは主に各藩内の港から運ばれたものと思われますが、すでに肥前産の磁器は伊万里焼という名称が消費者の中に定着していたため、どこの港から運んでも伊万里焼と呼ばれたわけです。
近年、平戸藩内の早岐(佐世保市)の港付近の発掘調査で、三川内製品に限らず、有田や波佐見の製品なども多量に出土しています。東南アジア向けの製品も多く、不良品なども見られるので、生活用品としてその地使われたものではなく、流通する商品として港に集められた可能性が考えられます。よって、たしかに伊万里以外の港からも磁器が積み出され、異なる藩の港に運ばれることもあったのではということです。ちなみに、伊万里も早岐も、有田から港までの距離はほぼ同じくらいです。また、(尾)館長に教えていだだきましたが、文化四年(1807)の『皿山代官旧記覚書』には「大村領焼物二十四俵」、つまり、おそらく波佐見の製品を、牛で伊万里に運んだと推測される記述もあるそうです。

ちょっと違う視点から見てみます。磁器が開発されても、有田では陶器生産がなくなるわけではなく、1630年代までは同じ窯場の中で必ず併焼されていました。ということは、陶器は唐津の港、磁器は伊万里の港から積み出されたというよくある説明では、同じ有田の窯場で併焼しているやきものでも、陶器は唐津、磁器は伊万里の港に分けて運んだことになります。高級品で利ざやの大きい磁器の方ならまだしも、当時の肥前の陶器の中でも下級品ばかりの有田の製品を、遠路他藩でもある唐津まで運ぶ理由がありません。同様に、当時、肥前陶器生産の中核地であった伊万里の陶器を、伊万里の港ではなく、わざわざ唐津まで運ぶ理由もないのです。

陶器は唐津市にある岸岳の丘陵に登り窯が築かれてはじまりますが、当時そこを治めていた波多氏の領地内で近接する港が唐津だったのです。しかし、後には、他の地域にも陶器生産が広がりました。つまり、当初は陶器は唐津の港、磁器は伊万里の港から運ばれたのですが、後には他の港からも運ばれたということです。よって、唐津焼や伊万里焼の名称の由来は、正しくは「当初積み出された港の名前から」ということになるのです。(村)H29.7.14

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図1 佐賀県西部近辺の位置図

 

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