有田の陶磁史(49)

前回は、明治20年(1887)頃に書かれたと思われる、久米邦武の『有田皿山創業調子』のことについてお話ししていました。その中では、有田のような辺ぴなド田舎にわざわざよそ者の祥瑞が行くわけがないなどという、大変なお褒め(?)の言葉とともに、証拠がないと、きっぱりと祥瑞磁器創始説を否定しています。ただ、この時代の祥瑞否定は、祥瑞の存在自体を疑うわけではなく、磁器を作ったことも否定しません。有田磁器の起源は、祥瑞ではないという主張です。だから、当時の祥瑞否定論は、厳密には日本磁器の創始とは論点が異なり、朝鮮陶工説が盛り上がった分、相対的に祥瑞説が弱体化したという構図と言ってもいいかもしれません。

ただ、祥瑞説もなかなかしぶとくて、スパッと消え去ったわけではありません。とは言え、もうじき登場しなくなりますので、今回はこの“祥瑞説”について、少しまとめておきたいと思います。資料によって多少内容に違いはあると思いますが、ここでは、とりあえず明治36年(1903)に初版が刊行された、北島似水著『日本陶磁器史論』の記述に基づいてお話しします。

ちなみに、この北島似水は、本名を北島栄助と言い、有田の赤絵町にあった赤絵屋の家系で、明治前期までは家業を守っていましたが、明治後期には新聞記者に転身しています。実は、この北島家の屋敷跡は赤絵町遺跡として発掘調査を実施しており、平成2年(1990)に『赤絵町』として調査報告書も刊行しています。たしかに、明治の前期までの陶片が主体で、それ以降のものはほとんどありませんでしたね。現在は、有田郵便局がある地点です。似水も有田人ですので、当然、祥瑞説には懐疑的ですが、久米邦武と違い単に証拠がないとバッサリと切って捨てたのではなく、自説を組み立てて、何とか整合性を探っています。

とりあえず、似水によると、当時、ちまたでは磁器の創始者について、次のように語られていたと言います。原文を引用してもいいのですが、現代人には恐ろしく難解な文章なので今風に直すと、“五郎太夫(祥瑞)は、室町時代(戦国時代)の10代将軍足利義稙(よしたね)の時代、東福寺(京都)の僧桂梧に従って支那に渡り、数年間湖南の地にとどまって製陶術を身に付けた。そして、永正10年(1513)に帰国し試してみたところ、肥前有田の地は染付製品に適していたので、ここで製陶を試みた。”と言います。また、以前も少し触れたかと思いますが、明治21年(1888)、黒川真頼著の『工芸志料』では、帰国した祥瑞は磁器の製法を「肥前唐津等」の工人に伝えたのが、肥前において磁器を作ったはじまりだと言います。やはり、この二つの文献に見えるあたりが、当時世間で流布していた、祥瑞磁器創始説ではないでしょうか。ただ、『工芸志料』では、そのため、後世の「鎮西」(九州?)の人は、磁器の異名を唐津と言うようになったと記しますが、それを言うなら「伊万里」でしょうが!って、突っ込みたくはなりますが。

話しを戻すと、(了庵)桂梧が後土御門天皇の勅命により、正使として明に渡ったのは永正8年のことで、10年には帰国しています。寧波(浙江省)の阿育王寺の住持になっていますので、五郎太夫は現地では別行動を取ったということでしょうか。それにしても、滞在地として流布していたのが“湖南”とは意外や意外というか…、「???」。湖南省には長沙窯という唐代頃の有名の窯場はありますが、染付磁器とどんな関係があるのやら?これについては、別途似水も「五郎太夫は何故に景徳鎮に入らざりしや」という項目を設けていますが、実際には、なぜ五郎太夫は景徳鎮に入ることができたのかという内容にすり替わっていますので、やはり五郎太夫の存在自体は疑ってないようです。

久米邦武もそうですが、明治時代になると地元に関連する人が記した文献では、朝鮮陶工磁器創始説が一般化しますが、かと言って、まだ祥瑞五郎太夫の存在や磁器製作自体を否定することは皆無でした。まあ、この似水については、祥瑞自体はほとんど磁器なんて作ってないという持論は展開してますが。祥瑞を残したまま朝鮮陶工説を正当化する。なかかな綱渡り的な芸当が繰り広げられたのです。そのため、この後、当時の諸説を引用しつつ似水流祥瑞説の解釈が展開されるのですが、これが例の高原五郎七まで登場してきて何とも奇抜でおもしろいのですが、それについてはまた後日お話しします。(村)H30.8.3

 

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