有田の陶磁史(50)

この「有田の陶磁史」シリーズも、早いもので何と50回を迎えました。でも、このようにまだ磁器のはじまりあたりをウロウロしているところで、なかなか先に進みませんね。とりあえず、気力が続けばシリーズの3桁達成は確実でしょうが、その頃までにはせめて1世紀分くらいは進んでいて欲しいところですが。
前回は、明治36年(1903)に初版が刊行された、北島似水著『日本陶磁器史論』の中から、明治時代頃にちまたに流布していた祥瑞磁器創始説についてご紹介しました。本日もこの著から、似水流に解釈した日本磁器の創始説について触れてみたいと思います。

似水は久米邦武著『有田皿山創業調子』の一節、「有田陶器沿革史」の“五郎太夫が製したものが、極めて我が有田の磁器に似ているので、世間では有田の磁器が祖であることを疑うものがある。しかし、祥瑞が磁器を製した時と我が有田で白磁礦が発見された時とはその間の年月がはなはだ隔絶している(ので、一連のものではあり得ない)。”という内容の記述を受けて、“しかし、火のない所に煙は立たず”と切り返し、“(それでは、)五郎太夫はなぜこんなに有田と深い縁を結んでいるのか?有田付近では到底彼の製陶の事跡を発見することはできないのに。”。“このことを考証するには、五郎太夫といっしょに帰朝した桂梧について述べる必要がある”とします。
現在も、武雄市の武雄町に廣福寺という臨済宗のお寺があります。何でもここの開祖は桂梧のいる京都の東福寺と同じ聖一国師で、この方は廣福寺を建てた後、筑前で崇福と承天の二寺を建てて、その後東福寺を建立して移ったらしいとします。なので、当時の状況から中国からの帰港は唐津か平戸のはずなので、その縁から桂梧と五郎太夫もこの地に来訪し、しばらく風光を眺め散策したはずだという思いを消せないと言い、また、平戸や唐津への道が分岐する宮野(武雄市山内町)が当時後藤資明が住吉城を構えた繁華な城下で、武雄はただ温泉があっただけなので、武雄への途上にこの宮野付近に滞留したはずだとしています。

この山内町宮野は、有田の東側に接した場所で、旅路を急がない五郎太夫は、ここで中国から持ち帰った磁器の原料を用いたのではないかと記します。つまり、五郎太夫が磁器製作の実験をしたのは有田ではなく、有田近傍の宮野付近なので、五郎太夫をして、有田の祖とするのは間違いであると言います。そのため、当時の一般的な捉え方である「祥瑞五郎太夫は日本に於ける磁器開発の始祖なり、肥前有田は日本に於ける磁器製造の祖地なり、故に五郎太夫は有田の始祖といふべし」という捉え方は間違いで、「祥瑞五郎太夫は日本に於て磁器の製法を伝えたるの始祖なり、肥前有田は磁器製出の祖地なるも白磁礦の発見により五郎太夫の伝法を利用したるものなり、故に五郎太夫は有田開発祖師といふべからず」と断じています。
それにしても、勝手に祥瑞を唐津か平戸に帰港させといて、同行者の縁をこじつけて武雄に向かわせ、旅路を急がないことにして途中の宮野に滞留させた上で、“ほら、やっぱり祥瑞は有田に来てないんだから有田の祖じゃない”って言うんですから、思わず引いてしまいそうな、なかなかのパワープレーには違いないですね。この似水のパワープレーはこれにとどまらずまだまだ続きますが、長くなりますのでまた次回に回します。(村)H30.8.10

 

 

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