有田の陶磁史(51)

明治36年(1903)に初版が刊行された、北島似水著『日本陶磁器史論』から、祥瑞五郎太夫の磁器創始に関する記述について、ご紹介しているところでした。本日も続きです。ちなみに、前々回でしたか、なぜ五郎太夫は中国の湖南に渡ったのか分からないという話しをしました。いまだに真意は不明ながら、調べてみると、長沙窯では晩唐〜五代頃には、すでにコバルトの使用が試みられていたそうです。そういう意味では、あるいは染付がらみなのかもしれませんね。だから何って感じではありますが、とりあえずご参考までに。

さて、この似水さん、前回示したように、祥瑞が磁器をはじめたのは有田ではなく、山内町(武雄市)宮野だと主張されています。別に宮野だろうが別の場所だろうが今となってはどうでもいいことですが、久米邦武著の『有田皿山創業調子』もそうですが、事の本質は、こうした著述などを通じて、急速に祥瑞による磁器創始と有田における磁器の創始の物語が切り離されることになったことです。つまり、以後は、祥瑞のこととは関係なく、有田における磁器の創始が論じられるようになり、祥瑞のことが人々の意識から遠のくことになってしまうのです。

では、この似水さん、本当にそう考えていたんだとは思いますが、結果として、祥瑞と有田を切り離すようになる、どんな祥瑞像を描いていたのでしょうか?

「要するに彼は磁器の伝法者なり 太鼓叩きなり 左れば彼れは自ら手を下さず人をして時に製出せしむる事無きにあらざるも是れとて微々たるものなりしは畢竟所々に伝説を残して考証を困難ならしめたる主因ならずとせんや」と記しています。要するに、祥瑞は磁器の技術の伝導者、音頭取りであって、本来陶工ではなく、人に作らせることもあっただろうけど、それも微々たるものなので、あちこちに祥瑞伝説ばっか残して考証を困難にしていると考えたのです。

しかも、祥瑞が景徳鎮に潜り込めたのも、そのためだと言います。つまり、当時の景徳鎮は中国特有の磁器を製する本場なので、その製法は厳格に秘密にして守られていた。そこに、外国人が入れるはずがないと。祥瑞が入鎮できたのは、彼が本当の陶工ではなかったからだと言います。だから、何のために中国に行ったかは分からないが、当時流行の渡航熱に浮かれての視察か、誰かの使命を受けたと見るしかないと。製陶を目的としていなかった証拠に、晩年は悠々と故郷の伊勢で過ごし、製陶は行っていないことからも明らかであるとします。原料の土や釉薬は、きっと懇意にしていた中国人に手を回して集めたんだろうとし、磁器の製法は見慣れ、聞き慣れして会得したんだろうと言います。

これはまた、ずいぶんと手厳しいですね。とうとう、祥瑞は陶工ではないことにされてしまいました。ただ、「有田近傍の宮野及び大和の鹿背山は多少五郎太夫の製陶を試みし場所なるべきは吾人が信じて疑はざる所」とも記していますので、当時のすう勢に倣い、まだ祥瑞の存在自体を否定していたわけではありません。(村)H30.8.17

 

 

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