有田の陶磁史(52)

北島似水著『日本陶磁器史論』の話しをしてたら、あまりの奇抜さというかアホらしさに、段々おもしろくなってきました。なので、今日も続けます。ずばり本日は、『日本陶磁器史論』の中から「五郎太夫と高原五郎七との関係」の一節。

高原五郎七と言えば、今でも磁器創始の話しの中では時折触れられる名前で、このシリーズでも以前登場したことがあります。今ではこの二人が同時に出演することはまずありませんが、何か関係あるんですかね?でも、当時ちまたでは、本当に関係があると考えられていたみたいです。
似水の著では、「陶器考にいはく」として、「今利は唐土の風なり元祖五郎七、五郎八は山田五郎太夫の末なり」と記されます。この『陶器考』とは、嘉永7年(1854)初版の田内米三郎の著書で、この方は、江戸後期の陶磁器研究家で田内梅軒という名の方が知られているでしょうか。この原文では文章中に句読点はないのですが、似水は五郎七と五郎八の間を句読点で切っているので、一瞬「五郎八」は「五郎七」の書き間違いかとも思ってしまいますが、もちろん別人です。

しかし、ついに「五郎七」に続いて、「五郎八」まで登場してきて、「それ誰?」って感じですが、別にウケ狙いではなさそうです。そう、超マニアックな方なら、五郎八と聞けば、「五郎八茶碗」の文字が脳裏をよぎるのではないでしょうか。何でも、染付の大型の碗や、転じて大きくて粗末な染付の飯茶碗の総称らしいのですが、残念ながら、私の場合は超マニアックどころか、古陶磁マニアですらありませんので、具体的にどんなものかはとんと分かりません。五郎八茶碗と言うくらいですからもともと五郎八作の茶碗という意味でしょうが、五郎八は五郎七の弟弟子とする説や、本当は「五郎七茶碗」で、名の誤りがそのまま定着したとの説もあるそうです。ちなみに、似水は「俗伝によれば五郎七、五郎八は兄弟なりといひ又一人なりといふ」と記しています。どうせこの手の話しは口づてに伝わっていったんでしょうから、伝言ゲームみたいに、途中で「七」が「八」に変わっても全然不思議ではなさそうです。

とりあえず、似水は五郎八については、五郎八茶碗なる物品はあるが歴史上は存在した証拠もないとバッサリ切って終わり。五郎七と五郎太夫の関係に終始します。五郎太夫は伊勢、五郎七は大阪なので、出身地から見ても末裔であるはずがないと。また、五郎太夫が磁器の製法を伝えてから、五郎七が有田で製磁を継承するまで90数年も間があるので、直接五郎太夫の弟子とも思われないと言います。

そこで、この二人のどこに接点を見出したかと言えば、例のいっしょに中国に渡ったという京都・東福寺の桂梧がらみで、同寺を創建した聖一国師がその前に建てたという承天寺(福岡市)に行き着きます。というのは、『酒井田柿右衛門家文書』に承天寺の住僧が送った書簡に五郎七が同寺にいることが触れられており、だったら、五郎太夫もかつてそこに滞在したはずなので、器用な五郎七は間接的に五郎太夫の製法を継承したんだろうと考えました。そして、弟子や末裔と言われるのは、名前の類似と、ともに有田で磁器を製出したと言われる共通性だとしています。まあ、たしかに、そんなとこでしょうかね。
とりあえず、五郎太夫がはじめた磁器は、すべての原料が中国から舶来したものなので限りがあり、その上、五郎太夫自身が本当の陶工ではないので、ずっとそれをやろうとも思ってないし、追加して原料を手に入れようとも計画しなかったため、途切れたと考えました。そして、その後は有田で白磁礦が発見されるまで、磁器は途絶え中間物の時代が続いたとします。

この中間物なるものがいったい何を指すのかは分かりませんが、とりあえず、こうして祥瑞の磁器製作の技法が直接有田に継承されたものではない、つまり、別のものであるということを強調したのです。そして、最初に書きましたが、次第に祥瑞は忘れ去られたのです。

以上、何度かに渡って、祥瑞の磁器創始についてまとめてきましたが、いったいどこから五郎太夫なんて人を探してきたのやら今となっては分かりませんが、想像力がたくましいというか、五郎太夫と「五良大甫」を関連付けた発想にはほとほと感心させられますね。とりあえず、以前お話ししましたが、最終的に昭和34年に唱えられた「呉家の五男の家の長子」ってことで、ジ・エンド。(村)H30.8.24

 

 

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