有田の陶磁史(65)

今回も、前々回、前回に続き、明治36年(1903)初版の北島似水『日本陶磁器史論』の中から、朝鮮陶工磁器創始説の部分を見ていくことにします。説としてはくだらないので必要最小限にとどめようかと思いましたが、妄想としてはやっぱりおもしろいので、ついつい長くなってしまいます。

前回、似水さんは、『金ヶ江家文書』に記された内容を根拠に、泉山発見前に白川天狗谷で磁器が焼けているはずがないと、『有田皿山創業調子』の記述をキッパリ否定しました。ところが、舌の根も乾かないうちに、金ヶ江家の同じ文書中にある百間窯が白川の窯よりも後に築かれたと読める内容には異議を唱えて、後世の記録だから誤りがないとは限らないだろうということで、百間窯を先とする自説の正当化を試みたのです。一方では、『金ヶ江家文書』に書いてあるから正しいに決まっている、また一方では、『金ヶ江家文書』は後世に書かれたものだから、誤りがないとは限らないでしょって力説するわけです。実に斬新で便利な論法ですが、さすがにマネはできませんね。

似水説をひと言で言えば、「百間窯なければ白磁砿なく 白磁砿なければ白川なし」なんだそうです。つまり、白磁砿発見以前の李参平の最初の築窯地は百間窯で、白川はその後白磁砿が発見されてからの窯場であるとの主張です。そして、その証明として、百間窯では白磁砿発見以前の陶器の破片が採掘されることによって明らかであるし、発見以後も継続したことは、磁器の細片が窯場で収集されることからも十分立証できるとします。でも、御説によると、李参平って、板ノ川内に移る前に、南川原(南原)の清六ノ辻に窯を築いたんじゃなかったんでしたっけ?これは磁器創始以前の陶器の窯だから、数に入れなくていいということでしょうか?でも、実際には、清六ノ辻にある三つの窯跡では、どこでも磁器も焼かれているんですけどね。それに、たしかに百間窯でも陶器も磁器も採集できますが、清六ノ辻窯に限らず、南川原周辺の初期の窯場では、例外なく両方採集できるんですけど?まあ、とりあえず突っ込みは置いといて、ひとまず先に進めましょうか。

「泉山の白磁砿発見せらるるに及んでは磁器焼成の百間窯に不便なるや論なく是必然の結果にして敢て疑を容れざる所 茲に於いて彼(李参平)は陶窯小樽に移せり」とあり、百間窯は不便なので、現在の有田町内にある小樽に窯を移したとします。『金ヶ江家文書』に言う、白川での操業後「其内上幸平中樽奧江も百軒程之釜登相立候処、余り片付候場故相止、其後は村々所々江釜を移し申したる由。」って内容から、ついに百間窯から中樽に窯を移したことにしてしまいました。どう読めば、そう読めるんでしょうか?それに、「百軒程之釜」とは百間窯という意味ではないと思うんですが?ここでは、白川のことは触れられませんが、要するに、李参平は百間窯から小樽窯(小樽1号窯?)、そして白川天狗谷窯に移って磁器を焼いたって流れだと考えていいんでしょうか。大胆な新説ですね。

良く言えば、さすがに有田出身の方だけあって、土地勘がある分、思い切った推測ができたってことでしょう。でも、同じ磁器創始説でも、祥瑞については山内町でいいとしても、朝鮮陶工の部分まで山内町にしたら、さすがに地元の援護は期待できないでしょうね。これから、地元主体に説が展開するようになるところなのに…。だから、この後出てくる著作に一定の影響力はあったものの、似水説が通説になることはありませんでした。ただ、後の文献に突如として現れる珍説の元が、この似水説由来であることをあらかじめ知ってないと、古くからそんな伝承でもあったのだろうかと勘違いしてしまうかもしれません。

まあ、でも、この『日本陶磁器史論』は、それまでの文献と違って、現在でも引用するような古文書類には一通り目を通しているようで、それに関しては、画期的なことと言っていいかもしれません。そのため、本文中では言及されないものの、『金ヶ江家文書』の引用中に、ようやく「天狗谷」の文字が見られるようになります。ただ、これだけ大胆奇抜な似水でさえも「元和」のこととしか記さなかったように、ついに明治時代の文献には、後にはバリバリの通説となる、「元和2年」という磁器創始年が明示されることはなかったのです。(村)H30.12.14

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