有田の陶磁史(211)

 前回までは、正保4年(1647)の終盤頃に、山本神右衛門重澄が江戸の佐賀藩邸からの陶工追放命令に対して、運上銀倍増計画案を提示して有田の窯焼きと交渉し、半数の陶工は説き伏せたところでした。ただし、その計画案の中身が不明であるため、ちょっと妄想を働かせてみようとしてたところでした。

 前回までの話で、この倍増計画案が単なる生産量の増大によるものではなさそうなことはお分かりいただけたかと思います。だって、磁器の生産量増大による運上銀引き上げ策は、すでに10年前の窯場の整理・統合の際に使ってしまってますから。その時ならまだ磁器質のものを量産できたことに価値がありましたが、この頃はある程度量産があたりまえになった状況ですから、陶器以上中国磁器以下なんて話もしましたが、それ以上は需要の限界もありますし。ただし、一つだけ有望な大口の売り先が残ってました。江戸です。発掘調査では、やっぱりこの頃の製品から出土量が急増します。

 話を戻しますが、正保4年から数年前までにあった出来事を考えてみると、1640年代中頃には古九谷様式の開発がはじまり、遅くとも、正保4年までには、その後も改良は進みますが、一応の技術開発は完結しています。さらに、まだ初期伊万里様式の製品だとは思いますが、1647年には海外輸出もはじまっています。よって、運上銀倍増計画案は正保4年も終盤の頃の話ですので、こうした一連の動きは織り込み済みだったはずです。

 つまり、まとめると、山本さんが狙っていたのは、一つには付加価値の高い最新の古九谷様式、もちろんこれには色絵製品も含まれるわけですが、そうした製品の質的な改良による利ざやの拡大。それから、それにも関連しますが、海外輸出による需要の拡大などが大きな柱ではなかったかと推測されます。

 でも、古九谷様式なんて、当時はまだほんの一握りの業者しか生産できていないごく珍しいものですよ。それに、有田の外にほぼ出かけることのない陶工に海外輸出と言われても、何それ?って雲を掴むような話だったんではないでしょうか。ですから、いくら山本さんが得々として話そうが、半分の窯焼きが拒否しても不思議ではないような気がします。

 古九谷様式の詳細については、ものすごく複雑なので、後ほどじっくりお話ししますが、とりあえず、現実的に急速に各地の窯場に伝わったのは発掘調査成果などから間違いのない事実です。後の内山地区の窯場は、現在の住宅地と重複しており必ずしも全部発掘調査しているわけではありませんが、今のところ、1650年代前半頃に存在した山で、まったく引っかかりそうにもないのは南川原山くらいです。意外でしょ?南川原山にないというのは。まあ、これもおいおい説明しますが、当時の南川原山は有田でも最下級の製品を生産した場所だったのです。

 ということで、本日はおしまい。(村)

 

 

 

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