有田の陶磁史(216)

 前回は、昭和初期までの肥前磁器の分類は、生産場所ごとに分けられたという話をしてました。それにしても、分類の話をしてるのに、文字ばっかで肝心の製品の写真載っけないなって思われているかと思います。でも、まだ製品どうのこうの話にはなりそうもないので、具体的な製品の特徴などについては後日じっくりご説明いたします。

 さて、昭和初期までの分類ですが、あくまでも、当時の権威のあるお偉い方々が、製品の見た目や技法の違いは、生産場所に起因するって妄想…、いや、推定しただけで、別に、伝世品にそんなこと書いてあるわけではありません。ただ、お偉い方々の名誉のために言っておきますが、何もその方々があてずっぽうに産地を決めたわけじゃありません。たとえば、江戸後期の九谷では、すでに“古九谷”みたいなものがかつて作られたと勘違いされてましたし、柿右衛門焼の名も江戸時代には流布してましたので、そういったものが酒井田家だけで作られていたと考えても不思議ではありません。

 ところが、考えていただくと分かりますが、生産地別とは言っても、本来は、スタイルの異なる製品群ごとにまとめて、それぞれの産地に割り振ったものです。つまり、もともとは様式分類なわけです。じゃ、生産地別分類も後の様式分類もいっしょじゃんって言われそうですが、出発点はいっしょでも展開が違ってくるんですね。

 というのは、生産地分類の場合は、分類上の定義は製品の様式差ではなく、あくまでも生産地の違いです。これによって、どういうことが起こるかというと、実は、簡単に様式の垣根を飛び越えてしまうんです。様式は違っていても、産地が同じと考えられるなら同じ分類になるということです。もっと言いかえれば、必要なら、よその様式からぶんどってきてもいいということです。

 一例を上げれば、これまで最もド派手だったのは、“古九谷”で起こっています。もともと彩壺会の頃は、現在“古九谷様式”に区分される色絵磁器よりは少し幅が広かったものの、それでも似たような色絵磁器に限られていました。ところが、石川の人たちは欲張りだったんです。段々あれもこれもって感じで、染付だろうが青磁だろうが“古伊万里”から勝手にかなり持って行くようになったのです。その言い分がふるってます。“九谷は絵師の絵、有田は職人の絵”なんだそうです。だから、17世紀後半の製品ではクズは“古伊万里”に残すけど、いいものは九谷にいただきって感じでしょうか。たぶん、今、美術館や博物館で展示されてるような17世紀後半の名品は、柿右衛門様式を除いて、ほぼ“古九谷”ってことにされてました。でも、それが今では全部有田の職人の絵だったわけですから、何とも想像力のたくましいことで…。ピークは昭和30年代から40年代頃です。冷静に考えれば分かりそうなものですが、九谷ってどんだけ大産地だったの?ってとこですが、実際には、登り窯は2基しかないのです。たった2基です。いくら何でも話を盛りすぎでしょ。

 ということで、本日は、生産地別分類がゆがみ出すと、どういう風になるのかって話になってしまいました。(村)

 

 

 

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