有田の陶磁史(231)

 前回から、今風の様式変遷の捉え方についてご説明していました。唐津焼から“初期伊万里様式”、そして“古九谷様式”へと変化するというところまででした。ここまでは従来同様に時間軸で一列と言えばそうなんですが、決定的に違うのは、新様式の誕生によって従来の様式が消えてしまうのではなく、より普及帯の製品を担う様式として並行して作り続けられるということでした。本日は、その続きです。

 さて、ここまでは比較的変遷が単純でした。でも、ここからは従来とはまったく違います。というのは、詳しくは後日説明いたしますが、“古九谷様式”は1640年代中頃にはじまって、ピュアなものはおおむね1650年代の中頃まででなくなってしまいます。そして、このピュアな“古九谷様式”の製品が作られていた時期までは、多少の窯差はあるものの、地域(山)や窯による明確な生産品のランク分けはありませんでした。つまり、最先端の“古九谷様式”も従来の“初期伊万里様式”も、同じ窯で作られていたということです。しかし、1650年代後半頃には、地域(山)別に生産品の明確なランク分けができあがったのです。

 そして、ピュアな“古九谷様式”の特定の技術が有田から大川内山に移転して、それを改良して完成するのが“鍋島様式”、また別の種類の“古九谷様式”を改良して南川原山でできあがったのが“柿右衛門様式”というわけです。つまり、従来の様式分類の変遷では“鍋島様式”は民窯製品とは完全に切り離されていましたが、実は出発点は有田の“古九谷様式”ということになります。まあ、よく考えたら当然でしょうね。だって、“鍋島様式”が完成するのはおおむね1650年代後半頃ですが、将軍家への献上は1650年代初頭にははじまったと考えられますので、その頃の最新様式と言えば、“古九谷様式”ですから。つまり、最初は“古九谷様式”の製品を献上していて、その後その改良により完成した“鍋島様式”に変わったってことですから、系譜としては一続きです。

 ただし、こうした最高級品はそういうことなんですが、大川内山や南川原山での生産量なんて、有田全体から見ると大した量ではありません。じゃあ、その下のその他大勢である高級量産品、中級品、下級品なんかは、どういう変遷をするんでしょうね。

 とりあえず、理解しやすいところからお話しすると、下級品ですかね。1650年代後半頃には地域(山)別に生産品のランク分けが確立したって言いましたが、そもそも下級品生産の山の中で、それ以前から操業していた窯では、“初期伊万里様式”と“古九谷様式”の製品が混在して生産されることがほとんどでした。しかし、ランク分けの確立によって下級品生産の山になると、そこから“古九谷様式”の製品がスッポリなくなり、“初期伊万里様式”の類品だけが作られ続けたのです。つまり、下級品生産の流れとしては、当初“初期伊万里様式”にはじまり、“古九谷様式”が成立してからも旧来の“初期伊万里様式”で賄われ、“古九谷様式”の終焉後も“初期伊万里様式”、つまりずっと“初期伊万里様式”だったってことです。ただし、この頃は磁器自体が高級品ですので、あくまでもその磁器の中での下級品ってことですよ。

 ということで、今回はこの辺にして、続きは次回お話しすることにします。(村)

肥前陶磁の様式変遷図

 

 

 

 

 

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