窯業教育の歴史 其二 有田徒弟学校

日本初の陶器工芸学校・勉脩学舎は時期尚早ということもあって、明治25年(1892)には廃校となったといわれていますが、このことは窯業界に於いて大きな課題ともなりました。時は明治28年(1895)4月。京都市岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会に出品した有田焼について、博覧会審査官の綿野吉二は次のように語っています。
「佐賀県は陶磁の本場と称すべきものなれど、依然旧株を守り、少しも進歩したりと言うべからず。むしろ旧に甘んずるものなり。有名なる二大会社即ち香蘭社・精磁会社の出品は多数なるも、二大会社の出品としては賞するに足らず」と。
このときの不成績によって有田の陶業者は惰性の眠りから目を覚まされ、これが有田徒弟学校設立の大きな動機となったといわれています。

有田徒弟学校は有田町・新村・曲川村・大山村・大川内村の一町四か村での組合立の学校でした。場所は白川にあり、修業年限四か年、尋常小学校を卒業した12歳以上が入学できました。特筆すべきは教授陣の顔ぶれです。このことは昨年5月の「泉山日録」でも紹介しましたが、明治28年7月24日、校長に元東京美術学校教授で、当時は帝国博物館書記であった日本画家の川崎千虎が任命され、同年8月31日、絵画教師として東京美術学校卒業の安藤時蔵、同年9月18日には東京工業学校陶器玻璃工科卒業の梅田音五郎が理化学教師に任命され、このほかにも4名が教員に任命されました。川崎校長の月俸は90円。小学校教員の初任給が8円のころです。有田の関係者の意気込み、期待が伝わってきます。同年10月1日、田辺輝實佐賀県知事や各郡長などを迎えて開校式が挙行され、翌年3月に行われた陶磁器品評会には早速、生徒の作品が参考室に陳列されました。

当館には2点の「有田徒弟校製」の銘が入った焼き物を所蔵していますが、1点目の色絵流水花卉文蓋付碗は長崎県千々石の橘家よりいただいたものです。この橘家は江越先生が私塾(亦楽亭)を開いていたころ、橘常葉さんが入塾していたことがあり、その縁で入手されたものでしょうか。
もう一つは2点同じものがあり、一つは旧有田町役場が所蔵していたもので、もう1点は町内の馬場家より寄贈された染付盃です。こちらは明治31年(1898)6月に開庁した有田町役場の開庁祝杯で、同じく「有田徒弟校製」に銘が高台内にあります。ちなみに、この折の役場庁舎は陶山神社境内にあったもの(明治40年に焼失)ではないかと思われます。

ところで、昨日、元同僚で現在長崎大学准教授の野上先生から、前回の「泉山日録」で紹介した江越礼太先生の肖像画の件で、画家・波々伯部繁に関する貴重な情報をご教示いただきました。有田を離れても時々この「日録」を覗いていただいている由。多謝、多謝です。(尾) H29.5.9

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「有田徒弟校製」銘が入った色絵流水花卉文蓋付椀  
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側面に「祝有田町役場開廰式 明治三十一年六月」、高台内に「有田徒弟校製」の銘が入った染付盃

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問い合わせ

文化財課 歴史民俗資料館
〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号
電話:0955-43-2678 ファックス:0955-43-4185

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