有田の陶磁史(17)

肥前の近世窯業が成立した頃、最初に使われたのは割竹式の登り窯でした。竹を半裁したような、天井部も側面も直線的になる窯です。この割竹式登り窯ですが、細別すると多種多様ですが、枝分かれ前の原点となるスタイルは2種類です。一つは岸岳付近に分布するタイプで、これを仮に「岸岳型」と呼ぶことにします。もう一つは、朝鮮半島南部、現在韓国に残る窯跡と類似したタイプで、伊万里市周辺に多いため、「伊万里型」と呼ぶことにします。

先ほど、割竹式は多種多様という話しをしました。最初から多種多様なのではなく、段々そうなるのです。もちろん、その原因は、立地やら自然の制約による面も無きにしもあらずでしょう。でも、こういうことって窯業技術では、さほど珍しいことではないのです。

もちろん、水と油くらい違う技術ならすぐには混じりませんが、「朱に交われば赤くなる」です。とりあえず、近いところに、近いものがあると、意識しようがしまいが混じります。ましてや、同じ朝鮮半島系の技術である「岸岳型」と「伊万里型」の割竹式登り窯の技術が、混じらない方が変です。同業のライバルがまわりにひしめいているのですから、のぞき見くらいはすると思いませんか。ついには、連房式登窯の要素が混じる割竹式や、逆に、割竹式の要素の混じる連房式なんへんてこりんなものまで現れます。まるで、アンモナイトや三葉虫の進化みたいでしょ。

ただ、そうした生物の進化と同じで、最終的には、技術力やら運やら要因はいろいろあるんでしょうが、強いものが残り、弱いものは淘汰されます。こうして、肥前の統一的な窯体のスタイルが形成されるわけです。しかし、しばらくすると、時代の変化に対応すべく新たな混沌がはじまり、またその修正が起こります。終わりのない繰り返しですね。

窯業が個々の陶工集団の裁量に委ねられた状態では、こうした混沌から抜け出し、安定した生計を維持し、経済活動として発展させることは容易ではありません。そこで、全体を統括するリーダーが必要になってくるわけです。このリーダーという意味には個人ももちろんですが、地域という意味もあります。当初は岸岳周辺が肥前の窯業をリードしましたが、慶長の役が終わった頃までには、急速に伊万里市周辺が中核的な産地へと変貌を遂げました。他の地域は、独自色は残しながらも、トータル的には、中核的な産地に追随するという流れができあがったのです。

さらには、藩が窯業に関心を持ちはじめると、産業化を目指して生産システムの構築に乗り出します。藩のやることは、窯場を全部潰してみたり、町ごと造って窯業地を新設したり、陶工集団もあっちこっちに動かしたりと、陶工レベルでできる小手先ではなく、これでもかってほどの荒療治も厭いません。こうやって、肥前の近世窯業の産業化が押し進められたのです。

また、話しが別の方向にずれてしまって、先に進みませんでした。先のことまで考えてませんが、こんな感じでゆっくりとしか進まないのかもしれませんね。(村)

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図1 初期の窯業地域と主な陶器窯

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