有田の陶磁史(56)

前回まで、昭和19年(1944)水町和三郎著の『伊万里染付大皿の研究』の中でまとめられている、江戸時代から明治頃の祥瑞磁器創始説についてお話しました。

本日からは、江戸時代には原則的に触れられることなく、明治時代になって台頭してくる朝鮮陶工磁器創始説についてお話ししてみたいと思います。

このように、明治になると朝鮮陶工説や李参平説が台頭してくるのですが、その説の基本についてはすでにこのシリーズの(47)で、明治10年(1877)の『工芸志料』の内容を一部引用しているところです。そうですね。後の文献になるほど、あちこちこねくり回して、どこまでがちまたで流布する基本となる説なのか著者個人の主張なのか曖昧になってきます。そういう意味では、この文献が一番基本に忠実だと思いますので、これから朝鮮陶工説に触れるに当たり、長くなりますがもう一度引用しておきたいと思います。この文献は比較的読みやすい文体なので、原文のまま記します。

「有田窯は慶長三年鍋島直茂、朝鮮を征して還るの時、朝鮮人李参平という者あり、直茂の臣多久長門守安順に従いて帰化す。而して後李参平、彼の国の瓷法を以って瓷器を製せんことを乞う。安順之を許して之を製せしむ。李参平は朝鮮の金江の人なるを以って金江氏(かながえ)を冒す。頗る良工なり、子孫今に至りて猶お陶器に従事す。初め李参平肥前の田中村に至り、陶器を造り試むと雖も良土を得ず。当時の器往々世に存す、然れども瓷器多く間々白磁の者あり、之を堀出手と云う。其の後白堊(亜)を松浦郡泉山に檢出し、始めて清潤潔白の磁器を製することを得たり。相次ぎて遠近より工人来り集まり、終に一部落をなせり、今の有田焼則ち是なり。其の地泉山の前面小渓中にあり、泉山は満山悉く磁に適応なる種々の良土および釉料の土石を産す。」

特に説明の必要はないと思いますが、「陶器」、「瓷器」、「白磁」、「磁器」の用語の関係は、現代の方々にはちょっと分かりにくいかもしれませんね。ようするに、李参平は「陶器=陶磁器」製造を試みたけどいい土がなかった。当時の器はたくさん世の中にあるけど、「瓷器=炻器」が多いが、時には「白磁=硬質瓷」もある。その後、陶石を泉山で発見し、はじめて純白の「磁器=磁器」を製することができるようになったってくらいの意味でしょうか。

これをかつての通説である「元和二年に、李参平は、泉山で陶石を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、日本初の磁器を創始した」という内容と比べてみると、まず、まだ元和二年には触れられていません。しかし、李参平、つまり金ヶ江三兵衛は出てきます。泉山で陶石が発見されて磁器が創始されたことは記されますが、まだ天狗谷は出てきません。つまり、かつての通説の原型はできつつあることが分かります。ただ、この場合の「日本初の磁器」は、少しひねりを入れて解釈する必要があります。というのは、この頃はまだ祥瑞の磁器創始説が否定されているわけではないので。つまり、李参平がはじめて創始したのは、“泉山陶石を原料とする磁器”ということになります。(村)

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