有田の陶磁史(112)

前回は、「皿山金ヶ江三兵衛高麗ゟ罷越候書立」について掘り下げているところでした。本日もその続きです。

前回で、元和2年磁器創始説は、何かこの文献の解釈か何かが関わってそうってところで終わってました。押さえておきたいのは、直接磁器の創始年を記した古文書類はなく、しかも、磁器創始関連以外でも、元和2年の年号を直接記す文献もないこと。つまり、やはり、唯一、この年号を連想させそうなのが、問題の書立に限られるということです。

まだ、お忘れではないと思いますが、そもそも、この文献の精査は、『肥前陶磁史考』に引用されていることからはじまったわけです。そこで、中島浩氣氏のこの文献の解釈を覗いてみることにします。

 

「此書立に依れば、今年三十八年の間丙辰の年より云々とあるは、彼三兵衛が三十八才の時にて、丙辰は則ち元和二年である。而して此書立を差出せしは巳とある故に、翌三年の四月二十日に当ってゐる。此前後の消息より考察して、我邦白磁を創製されし泉山磁礦の発見は元和二年に相違ない。」

 

ついに、でたーっ!!って感じですが…。まあ、内容自体はさほど難しいわけではありませんのでお分かりいただけると思います。ただ、「此前後の消息より考察して」と書かれているように、この前後の消息を深読みしないと、なぜ「元和二年に相違ない。」のかが見えてきません。

まず、念頭に置く必要があるのは、この元となる書立には、「所〻ゟ集り申罷居候者百廿人、」とありますので、方々から120人もの人が集まってきてから書いている文献だということが分かります。この120人はおそらく三兵衛や多久から移り住んだ人たちと同じ窯焼きの人数で、多久から三兵衛とともに移り住んだのが18人、三兵衛自身10人の人を雇っていると記しているので、120人+19人で、だいたい140人くらい。仮に1人が三兵衛と同様に10人雇用していたとすると、140人×10人で1,400人。この1,400人にも家族がいたでしょうから、おそらく有田に移り住んだ総勢は、数千人になるのではないでしょうか。

という前提のもとに考えてみると、有田に数千人規模の人が集まるシチュエーションなんて、どう考えても磁器創始しかありません。何しろ、以前ご紹介したように、当初の有田は場末も場末、零細、弱小の、いつ潰れるかも分からないような窯業地だったわけですから。

ということは、中島説では、書立を提出したのが元和3年ですから、磁器創始はそれ以前ということになります。(村)R1.11.29

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