有田の陶磁史(146)

前回は、『三河内焼窯元今村氏文書』という書籍に所収された、「今村氏代々申伝記之」という文書に、元禄6(1693)に肥前の古い窯場について調査した記録があることをお話ししました。

この元禄6年当時の調査では、有田に関しては、以下のとおり、二つの窯場が記されています。

 

「一 南河原皿山 彌右衛門と申者取立」

「一 小溝皿山 三兵衛取立是ハ南川原同前ニ出来」

 

小溝皿山の記載に「南川原同前ニ出来」とあることから、この文献史料では南河原皿山と小溝皿山は、ほぼ同じ頃に成立したということになります。

 

また、同じ文久2(1862)の『折尾瀬村三河内今村甚三郎蔵書写』には、「国々焼物皿山元祖並年数其外高麗ヨリ来ル人書畄今村如猿記之」という文書もあり、同じく各地の皿山の成立に関わる窯場などが記されており、やはり有田に関しては以下のように2窯場が記されています。

 

「有田南川原山頭彌右衛門其子太郎右衛門」

「小溝山頭三兵衛 右こみそ山南川原同前ニ出来」

 

この二つの史料の内容はほぼ同じだということは分かりますが、こちらの方には今村如猿による調査であることは記されますが、その調査年について触れられていません。ですが、同書によるとこれを記した今村如猿は、三川内焼の始祖の一人とされる朝鮮人陶工巨関の子である今村三之丞の子とされています。つまり、巨関の孫っていうことですが、同書によれば、享保2(1717)死去とされています。

 

つまり、ごく素直に考えれば、最初の方の史料の文禄6(1693)年の調査とは、時期的に見て、今村如猿によるものである可能性が高く、両文書とも同じ調査に基づく記述だと考えて良さそうです。内容が同じで当然だということです。

ただ、両史料には、よく見ると、ちょっとした違いも見られます。前者では、「取立」の名称が使われて、後者では「頭(かしら)となっていますが、要するに、どちらも窯場のリーダーということだと思います。また、前者では窯場の名称は「皿山」、後者では「山」となっていますが、これについてお話しする前に、これらの史料の理解を深めるためと、今後も触れるであろうこの付近の地理的混乱を招かなくするために、まずは、地名の話しをしておく必要がありそうです。

ただ、長くなってしまいますので、次回説明することにします。(村)R2.9.4

 

図
図中で天神森窯跡とあるあたりが南川原山、小溝上窯跡とあるあたりが小溝山

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