有田の陶磁史(168)

前回まで、ちょっと調子に乗り過ぎて、李朝陶磁の話に深入りしすぎてしまったかも?まあ、紙の活字と違って文字数の縛りがあるわけではなし、特に先を急ぐ理由もないわけですし、だいたい、毎回その時の思い付きで書いているので、いろんなことが思い浮かんでしまいますので、脱線するなって方がムリです。でも、今日からは本題に戻りますよ。かつて“南京焼”とか“南京白手の陶器”とか呼ばれた中国風磁器は、朝鮮半島出身の陶工がすぐには作れなかったのでは、という話の続きをすることにします。

 

これまでさんざん記してきたとおり、李朝磁器の基本は無文の白磁で、中国風磁器は染付です。つまり、朝鮮半島出身の陶工にとっては、大ざっぱに言えば絵がないだけですから、成形した器に絵を描けばいいだけす。当然、そんな気がしませんか?いや、本当にそんな気がした方はヤバイかも…。紙に鉛筆で描くわけじゃないですから。「別にヘタでもいいじゃん。」「いや、そういう話じゃないんだってば…。」

 

以前も触れましたが、日本磁器の創始に携わったであろう陶工たちは、朝鮮半島の出身者です。もしそうでなかったとしても、もともと肥前には施釉のやきものを作る下地はないので、技術的には朝鮮半島であることは間違いありません。ですが、そうした朝鮮半島から渡ってきた人たちは、故国で染付磁器を焼いていた陶工だとは考えられないのです。というのは、李朝の窯場で染付磁器を製作したのは、広州の官窯に限られます。しかも、数量的にはわずかです。

この李朝官窯など高級品を焼いた窯場では、窯詰めの際に、上級品は匣鉢に入れ、中級品はトチンやハマなどの焼台に一点ずつ載せ、下級品は目積みして重ね焼きする3つの方法が組み合わせられます。しかし、中級品の生産窯では匣鉢詰めがなくなり、下級品の生産窯では重ね焼きのみが行われています。

 

朝鮮半島出身の陶工によってはじめられたため、この窯詰め技法は基本的に肥前でも共通しています。ところが、磁器創始以前の陶器だけが生産されていた時期の窯では、窯跡の発掘調査でも匣鉢は出土しません。ということは、唐津焼と称された陶器の焼成には匣鉢が使われておらず、唐津焼には李朝の高級品生産の窯場の技術は含まれていなかった可能性が高いということです。そうすると、必然的に、染付製品など作ったことのある陶工はいなかったってことになります。

 

肥前では匣鉢は磁器の成立と同時に出現します。そして、磁器の場合は、匣鉢に詰めるものや、焼台に一つずつ載せるもの、重ね焼きするものが同時に生産されています。このことから、磁器は李朝の高級品生産窯に倣っており、陶器よりも高級品であったことが客観的に分かります。

でも、現実的に匣鉢が出現するんだから、李朝の高級品生産の技術も一部には入ってきたってことでしょ、ってご意見もあるかと思います。ごもっともです。確かに、中級品以下の窯場ではお決まりの、トチンやハマなどの焼台類や目積みに使う目などは、李朝の窯場のものとソックリです。たぶん、李朝の窯場の窯道具を、肥前の初期の陶器窯に捨てておいたら見分けが付かないでしょうね。

ところが、匣鉢だけは、成形方法も形状もまったく違うのです。もちろん、中国の窯とも異なります。このことから推測できるのは、自分たちは使ったことはないが、高級品は匣鉢に入れて焼くんだって李朝の流儀だけは知っていたのではないかということです。でも、何しろ使ったことも見たこともないので、独力で何となくそれっぽいもんを作ったといったあたりが最も当たってそうな気がします。

こうしたことなどからも、やはり故国で染付磁器なんて作ったことがある陶工はいなかったんじゃないでしょうか。ということで、本日はここまで。(村)R3.3.12

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