有田の陶磁史(172)

前回まで、朝鮮半島出身の陶工に日本磁器みたいなものを創始するのは、とっても大変だと思いますよって話をしてました。さらに、呉須の入手もそうですが、それを使った下絵の具の製法なども、おそらく祖国で身に付けた技術にはなかったでしょうから。それに、磁器創始とともに出現する型打ち成形の技法も、当時の李朝には土型そのものがありませんので、たとえ中国製品を穴があくほど眺めてもどうやって作ったのか分からなかったはずです。

 つまり、日本磁器の創始にあたっては、どうしても影の黒幕の存在を想定しないとムリなのです。ただ、この黒幕に関しては何の史料もありませんので、特定のしようがありません。まあ、とは言え、何の根拠もありませんが、あえて妄想すれば、できないことはありません。

 というのは、たとえ陶工が磁器を開発したとしても、「それを、どこにどうやって売るの?」ってことです。ついこないだ朝鮮半島からやってきたような人が、磁器の売り先の世話まで、とてもできたとは思えません。それに、そもそも、磁器の前に唐津焼という陶器はすでに流通していたわけですから、それに乗っかかったと考えるのが自然です。実際に、1630年代以前の初期の磁器の出土状況を見ると、唐津焼と同じように、日本海側と太平洋側では瀬戸内から関西あたりまでの例が多く見られます。

 当然のことですが、日本で磁器がはじまった頃には、すでに陶磁器の売買をなりわいとする商売は存在していました。よく知られているところでは京都の例でしょうか。慶長(1596~1615)末頃と推定される『洛中洛外図屏風』にやきもの屋が描かれていますし、「せと物や町」の名称が記された文献も残っています。実際に、発掘調査でもやきもの屋跡と推測される遺跡がいくつか発見されています。

 ですから、磁器の創始には、目ざとい商人が完成前から介在していたと考える方が自然だと思います。きっと朝鮮半島の技術であることは重々承知の上で、あえて当時の磁器市場をほぼ独占していた中国磁器に似た製品を作らせたんじゃないでしょうか?国内市場の動向なんて、陶工に分かるはずないですしね。

 そう考えると、ここからはもっと妄想になりますが、商人ならば呉須を調達することもできたような気がしませんか。ついでに、平戸や長崎あたりから、中国出身の陶工まで調達したかもしれませんね。仮にこう考えると、一応、すべてつじつまは合うんですが。(村)

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