有田の陶磁史(173)

前回は、日本磁器の創始には、陶工だけじゃなくバックに黒幕がいて、完成以前から、実は商人が関わってたんじゃないでしょうかって話をしてました。書き忘れましたが、呉須の入手や型打ちの技法だけではなく、染付製品が一般的って話をしましたが、描かれる文様そのものも中国磁器や中国の画集などを手本としたものですから、やはり陶工がいちいちそれを準備するのはムリです。これについては、後日、もう少し詳しく説明いたします。では、前回の続きです。

 

 今に伝わる文献史料の中で、有田に関わった商人がはじめて登場するのは、寛永19・20年(1642・43)に有田皿屋の生産品を「山請け」したという記録です。山請けとは専売権のことで、これは有田全体の製品を買い上げる権利のかわりに、藩に運上銀を銀年21貫目納めるという契約でした。

 結局、この時は最後は商人が大損かっくらうのですが、その5年ほど前の寛永14年(1637)時点での皿山からの運上銀は銀2貫100匁でしたから、その10倍払ってでも儲かると踏んだのでしょう。ちなみに、21貫目が現在ではどの位の金額か知りたいでしょ。でないと、江戸初期の磁器の価値も見えてきませんし。ところが、当時と現在では生活や工業力が違いますので、単純に比較できないというのが事実です。ごく大ざっぱに言えば、工業力の発達した今は人が高く、物が安いということです。しかし、それじゃ身も蓋もありませんので、例えば日本銀行金融研究所貨幣博物館のHPにあるQ&Aには、江戸初期の米価から計算した金1両の価値は10万円前後とあります。仮に、あえてこれで計算してみると、銀1,000匁で1貫、1両は銀60匁ですから、21貫は350両ということになり、何と驚くなかれ3,500万円ということになります。もちろん、商品代は別ですから、磁器に対する現代の感覚ではビックリですが、それだけ当時の磁器というものが希少なもので価値が高かったことが良く分かります。

 

 完全に脱線してしまいましたので、話を元に戻します。

これはそもそも、塩屋与一左衛門とえぐ屋次郎左衛門という大坂商人が、やきものを買い付けるために伊万里にきていたことにはじまります。そして、それを伝え聞いた山本神右衛門重澄という佐賀藩の役人が、伊万里町の商人東島徳左衛門に内命して話を付けさせ、3人に山請けさせたのです。これは、『山本神右衛門重澄年譜』にある記述ですが、この山本さんは後に初代皿屋代官に任命されたやり手で、当時は、伊万里や有田あたりの、主に現地の山林監督官であった「横目」という職についていました。佐賀の方なら武士の心得をまとめた『葉隠聞書』という書物をご存じの方も多いかと思いますが、例の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」ってやつです。実は、神右衛門はその口述者として知られる山本常朝の父親で、有田の窯業の産業化に大きく貢献した人で、この後も出てきますので、名前を頭の隅にでも置いておいていただくと助かります。

 

 また脱線。もとい。この出来事は、磁器創始からまだ30年もたっていない頃のことですから、やはり磁器創始の頃にも地元にもすでに商人がいたと考える方が自然でしょう。伊万里の港から磁器を全国へと積み出すのに、陶工自らが手配するはずもありませんし。

 ここで再び妄想です。案外、この東島徳左衛門さんあたりが、磁器の創始に関わった可能性もあるんじゃないかとひそかに心に秘めていますが、何の根拠もありません。でも、当時の年齢が分かりませんので、何とも言えませんけどね。少なくとも、かの金ヶ江三兵衛だって陶工として朝鮮半島から渡ってきて、亡くなったのは明暦元年(1655)ですから、陶工として半世紀以上過ごしていたということになります。だったら、商人歴30年超でもおかしくはないかもしれませんね。それに、やっぱやり手の山本神右衛門さんに単独指名されるくらいですから、それなりに大物だったんじゃないでしょうか。それから、この人、『酒井田柿右衛門家文書』「赤絵初リ」の口上覚にも登場します。例の初代柿右衛門である喜三右衛門に、長崎で中国人から習って赤絵を作らせたってやつです。ここでも、長崎、中国人…です。だったら、磁器の創始に際して、呉須の入手も、中国人陶工の調達もできそうな気がするでしょ。やっぱ大物感、プンプンです。(村)

 

 

 

 

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