有田の陶磁史(175)

前回は、磁器の創始には、陶工だけではなく、商人や藩が絡んでないと難しいでしょって話が完結したところでした。何となく、今思い付くところでは、やっと磁器の創始に関する話題が一段落したような…。ですから、今日からは、話を少し前に進めることにしたいと思います。

 有田は、磁器が創始される前は零細な窯業地で、現在確認できる限りでは、窯場は最大でも6ヵ所しかありませんでした。しかし、1610年代中頃の磁器創始後、1630年代までには、20ヵ所を超えるまでに急増しています。

 その大きな特徴は、磁器創始後も陶器もやめることなく併焼していることです。しかも、この陶器と磁器は別々の業者によって生産されたわけではなく、おそらく一つの業者の中で陶器と磁器が作り分けられています。その根拠となるのが、前にも触れたと思いますが、一つは、同じ登り窯の同じ焼成室で陶器と磁器が併焼されており(図1)、目を挟んで重ね積みした陶器皿の一番上に磁器を乗せて焼いていることもあります。また、小溝上窯跡では、口縁部を染付磁器、体部を鉄釉陶器製とした壺の破片なども出土しています(図2)。これなどは、一つの製品でありながら部位別に陶器と磁器を使い分けているわけですから、陶器と磁器が別々の業者で作られていたとは考えにくいと思います。つまり、基本的にベースとなる生産技術は、陶器も磁器も違いがないことになります。

 でも、現実的に、陶器と磁器では、ずいぶん見た目が違うことは確かです。これはこないだまでの話にも通じますが、ひと言で言えば中国風に見せているかどうかの違いです。つまり、李朝の技術がそのまま反映されているのが陶器その技術をなるべく表に出さずに中国風に仕上げているのが磁器ということです。

 もちろん、いくら陶器が李朝の技術そのままと言っても、李朝製品と同じものが作られたわけじゃありませんよ。商品である以上、売れなきゃ意味がありませんから、日本の文化や慣習にマッチしたものにしますから。ですから、模範とした製品は李朝製品ではなく、当時、国内唯一の施釉陶を生産していた愛知県の瀬戸や岐阜県の美濃の方です。その頃だと、美濃の方が中心ですが。まあ、とは言え、やはり李朝っぽさは残ります。例えば、当時の李朝白磁と同じように、絵を描く場合は鉄絵ですし、しかも、圧倒的に絵を描かない無文の製品の方が多いことも共通します。

 逆に、磁器の方は、無文のものはほとんどなく、絵を描く場合は染付で、鉄絵もなくはありませんが、染付文様の一部に組み合わせる程度で極めて例外的です。

 このように、同じ業者の手になるものであっても、技法が明確に使い分けられているのです。(村)

 

図1 白磁皿と透明釉陶器皿の熔着例

 

図2 口縁部が染付磁器、体部が鉄釉陶器の壺   

         

a(外面)

 

  

  b(内面) 

 

 

 

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