有田の陶磁史(179)

前回は、磁器を生産していたら、だんだん原料がなくなってきたかも?『家永家文書』の中に、それらしき記述があるってところまででした。本日は、その記述からです。

 

 (前略)尤有田郷小溝原暫在宅仕陶器焼立候ニ付、従 直茂様出精仕、末々相続之儀為蒙 仰出由ニ御座候得共、土払底仕、焼立不相叶ニ付、壱岐守孫正右ヱ門方々土床探促仕、当皿山え分ケ入、只今之土場を見出シ、白川山天狗谷と申所ニ焼物釜壱登リ塗立、南京焼仕候(後略)

 

 それほど難解な内容ではありませんが、使われている用語の解釈にちょっとひねりが必要な部分がありますので、簡単に説明しときます。肝心なのは文章の前半ですが、その前にじらすわけじゃありませんが、まずは先日お話しした内容と関係しますし、前半を理解するのに好都合ですので、文章の後半部分の方から触れておきたいと思います。

 要するに、正右衛門があちこち土を探し回って、「当皿山え分ケ入、只今之土場を見出シ、」ということですが、これはこの文書が出された安永2年(1773)段階の「当皿山」ということになりますので、正右衛門当時にはまだできてませんが、後の「内山」のことと解釈されます。同様に只今之土場、つまり現在の土場とは、泉山磁石場のことです。前にも、正右衛門は「土床」を探したと記しますが、江戸時代には「陶石」や「磁石」という使い方はせず、「土」と呼ばれていました。したがって、現在は“磁石場”と言いますが、江戸時代には“土場”、明治になって“石場”と呼ばれるようになっています。

 そして、その泉山で土を発見して、「白川山天狗谷」に窯を築いたとしますが、これが現在の天狗谷窯跡のことです。ここでは「白川山」と記述されていますが、もちろん正右衛門が泉山を発見した当時に、「白川山」という地名があったわけではありません。これも文書の書かれた当時の名称です。天狗谷窯の後にもさらに白川には窯場が開かれますので、天狗谷の窯場を下白川山と呼び、他に中白川山、下白川山がありました。しかし、17世紀後半の中で、各白川山の窯場が下白川山の場所に統一され、以後、白川山と呼ばれるようになりました。したがって、文書の出された安永2年段階では、「白川山」という表現になるわけです。

 そして、天狗谷窯では、「南京焼」を焼いたとしています。この南京焼というのが、文字面でもお分かりいただけると思いますが、中国風の焼物、つまり、中国風磁器ということになるわけです。

 まとめると、正右衛門があちこち探し回り、泉山で磁器原料を発見し、白川天狗谷に窯を築いて、中国風磁器を焼いたということになります。ここでもう一度文書の記述をよく見ていただきたいのですが、やっぱり、どこにも泉山がはじめての磁器原料の供給地だとは書いてないでしょ。でも、昔研究した人たちは、まさか泉山以外の原料供給地があるとは露とも疑いませんでしたので、泉山が発見されて磁器がはじまったことになってしまったわけです。

 しかも、この内容は、金ヶ江三兵衛の事績とまったく共通しています。ですから、どちらかがウソなのかもしれませんが、まあ、同じ小溝窯にいた可能性の高い人たちなので、共同で探した可能性もなくはないでしょうね。

 ということで、本日は、核心の文書の前半までたどり着きませんでした。長くなりますので、続きはまた次回ということで。(村)

 

 

 

 

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