有田の陶磁史(190)

前回までに、1630年前後頃に、泉山で良質で豊富な原料が発見されて、天狗谷窯でその原料の適切な用法の試行錯誤や磁器専業の試験、ノウハウの蓄積が行われたという話をしました。金ヶ江三兵衛さんらは、数年掛けて、これで大丈夫ってとこまで、こぎ着けたんだと思います。その後です。

 以前、小溝で磁器を焼いてたら原料がなくなってきて、家永正右衛門らが探し回って泉山を発見したというような内容で、『家永家文書』をご紹介しました。その続きには、以下のような内容もあります。ちょっと内容が重要なので、原文のまま掲載しておきます。

 

 (前略)(正右衛門が)白川山天狗谷ニ壱登塗立釜焼候半、美作守様高麗御帰陣之砌、御連越之唐人御伽仕候を、御暇被下候末、南京上手ニ焼物御仕立候ニ付而、右高麗人ゟ日本人相払被下候ハゝ、一手ニ而釜焼仕度旨御願申上候ニ付、日本人釜焼職不相叶、依之、正ヱ門ヘハ右由緒を以、美作守様ゟ御免状其節之御代官山本甚右ヱ門殿迄被差出候由ニ而、右御免状写正ヱ門ヘハ被相渡置候由ニ而、代々右写書相譲置申候(後略)

 

 ようするに、前半は、正右衛門が天狗谷窯で磁器を焼いていた頃、多久美作守が朝鮮から帰陣の際に連れ帰った唐人ではじめは側に仕えていたが、暇をもらって磁器を上手に焼く者がいた。その高麗人から、自分が一手にやきものをしたいので、日本人を追放してもらうように願い出た。それで、日本人はやきものを作ることができなくなったというような内容です。

 この中で、美作守とあるのは、文禄・慶長の役の際に陶工を連れ帰ったのは多久安順(たくやすとし)ですから、長門守が正解です。安順を継いだ養子の茂辰(しげとき)が美作守ですので、それと勘違いしたのかもしれません。また、高麗人も唐人も同じ意味で、朝鮮半島出身者のことを指します。

 そう言えば、同じ家永家かどうかは分かりませんが、確かに幕末や明治の頃にも白川には家永姓の窯焼きがいて、有田ではそんなによくある名字でもありませんので、家永さんは本当に天狗谷窯に関わっていたのかもしれませんね。

 ただし、高麗人でも唐人でもいいですが、この文書では具体的な個人名がなく、どの高麗人さんのことだか分かりません。では、次にもう一つ文書を示してみます。

 

 (前略)元祖金ヶ江三兵衛と申者 御先祖様前ゝ長州様高麗御帰陣砌、右三兵衛儀身命を抛(なげうつ)、抽忠義候故、御帰陣ニ被 召連、御供被仰付、其後 御側江混と数年御奉公仕罷有、高麗ニ而御道引仕 其外噂等時ゝ為被 聞召上 御伽者之様ニ仕為罷有由ニ候処ニ、高麗人之儀ニ御座候得者、御国風ニ不相似、物伝イ其外万端本朝ニ一化不仕儀共多ゝ御座候故、御奉公之儀御断申上、釜焼職相願申候。(後略)

 

 こちらは『金ヶ江家文書』の一文です。この中で、長州様とは長門守、つまり多久安順という意味です。初代金ヶ江三兵衛は朝鮮から帰陣の際に長門守が連れ帰って、その後数年側に仕えていたが、日本風になじめず言葉も通じないので、奉公を断って、焼物職に就くことを願い出たみたいな内容です。

 どうですか?『家永家文書』と、ぴったんこカン・カンの内容でしょ。つまり、自分が一手にやきものをしたいので日本人を追放してねって願い出たのは、金ヶ江三兵衛でしょうねってことが分かります。

 せっかくいいとこですが、まだまだ長くなりそうですので、続きは次回ということで…。(村)

 

 

 

 

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