有田の陶磁史(196)

前回は、寛永14年の陶工の窯業界からの追放に際して、藩主勝茂からどんな命令が出されたのかという話をしました。まあ、完全に脱線して、佐賀藩は極貧で、家臣にも普段は農業や商売で生計を立てている人がいっぱいいたって話の方がメインになってしまいましたが…。

 さて、今日の話題に移りますが、陶工の追放は山本神右衛門重澄が藩主に山林乱伐の実情を報告して実現しました。もちろん、現地の山林監督官の肩書きも持ってますから、山林の保護を重視するのは当然です。

 でも、あれっ?って思いませんか。忘れたでしょうか。『家永家文書』に書かれていたことを。たしか、もともと多久長門守安順に仕えていた朝鮮人、つまり金ヶ江三兵衛が、自分が一手にやきものをしたいので、日本人を追放して欲しいって願い出たんじゃなかったでしたっけ。これって、山林保護と何か関係ありますか?ないですよね。完全に、あっちを立てればこっちが立たずってとこですね。

 陶工の追放は、山林保護か窯業改革か、はたしてどっちなんでしょうか?山本さんと言えば、血筋的に、たとえその時は、藩や藩主を騙そうが事実を隠そうが、先々藩のためになると信じたら、やっちまう人だということを以前記しました。現地の監督官ですから、泉山で良質で豊富な陶石が発見され、それを使った磁器専業体制の研究も天狗谷窯で進んだことも、当然目の当たりにしていたはずです。しかも、藩は常に金欠状態で、息絶え絶え。そしたら、この磁器という最先端のやきものを藩を潤す産業に育ててやろうと考えても不思議ではないと思いませんか。

 でも、仮にそうだとして、そのまま藩主に進言したらどうなったでしょうか。多久家くらいはうすうす気づいていたかもしれませんが、藩主どころか藩の上層部は、こぞって磁器生産が産業化できるとは思ってなかったはずなので却下でしょうね。ちなみに、この頃の皿山全体からの運上銀は、年2貫100匁でした。

 これを今の金銭価値に単純には換算できないことは以前お話しましたが、その時に参考にした日本銀行金融研究所貨幣博物館のHPに掲載されている江戸初期の金1両約10万円前後、江戸初期の三貨公定相場を1両=銀50匁とする記述から計算すると、銀2貫100匁は420万円となります。一瞬「結構あるじゃん!」って思うかもしれませんが、現在の日本の一人の平均年収は409万円(2020年)ですから、ほぼそんなもんです。ですから、窯業の管理や保護のためにわざわざ藩の資産を投入すると、軽く赤字になってしまうでしょうね。

 ということは、まっとうに窯業の育成など願い出たところで、却下は間違いありません。江戸時代には山林の資源は今以上に活用されていましたし、荒廃や乱伐による自然災害にもかなり危機感が持たれていましたし。(村)

 

 

 

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