有田の陶磁史(200)

何とついにこの連載も、めでたく200回目を迎えました。さすがに、はじめた頃にはこんな回数のネタが続くとは思ってもいませんでしたが、それどころか、まだ寛永14年(1637)に入ったばかりで、半世紀分も進んでないというこの現実。このペースでは、生きているうちに400年の歴史を語れそうにないので、ちょっとペースアップを図ろうかと思います。ただ、どうせすぐに寄り道してしまうので、そんなにすんなりと行くとは思いませんけどね。紙の印刷物だと、さすがにこんなにダラダラとその時々の思い付きでは書けませんが、ここは別に文字数制限があるわけではなし、とりあえずメモ代わりというところです。

 

 ということで、前回は、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合は、表向きの理由は山林保護ですが、やっぱ真の目的は窯業改革でしょってことを説明してました。まだ藩では窯業なんてさほど重要視してなかったので、まっとうに窯業の政策として願い出ても、まちがいなく却下されたはずだからです。ですから、藩と言っても、この時点では、まだ山本神右衛門重澄さんの個人的な策略です。それでは、本日からは、具体的にこの窯場の整理・統合で、何がどう変わったのか、その意義とは何かなんてことを話していこうかと思います。

 

 この窯場の整理・統合では、それまでほとんど人も住んでなかった有田の東部に、政策的に新たに町を造っています。この東部の地域は、小溝窯跡や天神森窯跡などの立地する西側の平地の土手っ腹に、ほぼ直角に南西方向から北東方向へと伸びる細長い谷筋に造られた窯業地です。

 ここには、なぜそれまでほとんど人が住んでなかったかと言えば、田畑にできる平地がほとんどなく、山だらけですが、流紋岩の岩山ですので、林業にも適していないからです。つまり、住もうにも食いぶちにできるものがないのです。

 しかし、従来の半陶半農ではなく、天狗谷窯で培った磁器専業を行う窯業専門の場所として町を造るのであれば、別に田んぼや畑は必要ありません。逆に、泉山にも近く、南北を山に挟まれその間を東西に走る谷筋に造った町なので、動線が極めて単純で、両端を押さえれば管理するのが容易なんです。知らない人が入り込んでも、すぐにバレてしまいますしね。

 いわば、ここは磁器を作らせるために造った工業団地なんです。磁器って、今でこそ工芸的なイメージがありますが、当時としては、バリバリの最先端の工業製品ですから。つまり、ハイテクの工業団地を藩(山本さん)が造ったってことです。(村)

 

 

 

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