有田の陶磁史(207)

前回まで、突然、正保4年(1647)9月に、江戸の佐賀藩邸よりの使いで、山が荒れるので、再び陶工を追放してねって指令が届き、それに関する、佐賀での対応をお話しているところでした。

最初は、指令を受けた家老の石井兵庫が窯焼きたちの説得を試みるもののバツ。次に、部下の石井右衛門佐と土肥喜右衛門、山本神右衛門の3人を刺客として送り込むものの、初戦はけんもほろろに返り討ち。それでも、めげずに再起した山本神右衛門重澄が再建案を考案の上で再度説得を試み、ようやく半数の窯焼きの説得には成功したものの、やはり全員の理解は得られず、首尾良く成功とは言えない状態が続いていたってところで、前回は終わってました。まあ、それでも、よく半数が説得に応じたもんです。だって、銀35貫目でも重い運上銀を一気に68貫990匁にするって計画ですから。

 さて、その報告を聞いた石井兵庫さんですが、この方も、江戸からは一方的に陶工追放しろって言ってきたのですから、お役人的には、最初から追放すれば、めでたしめでたしだったものを、何とか食い止めたいと思って乗り出したくらいですから、藩の懐具合もそうですが、陶工の苦悩も十分理解した人だったんでしょうね。やっぱ、なかなかいい人です。

 石井兵庫さんも、銀35貫目の運上銀でさえ上納困難なのに、その倍近くの運上銀を取り立てるというのは心もとないと思ったそうですが、一方で、陶工を追放すれば、彼らが他領に移住するのを認可しなければならず、それでは製陶技術が他領に流出するばかりか、運上銀もそれだけ減少するっていう藩側の思惑もちゃんと考えてたみたいですね。さすが管理職。

 でも、これって重要なので、くれぐれも「あっ、そう!」って読み流しちゃいけないところですよ。というのは、この時点でも、藩の中枢では、まだ磁器生産技術の有望性には気づいてなかったってことですから。だから遡ること10年前に、山本さんは陶工の追放や窯場の統合を山林保護の名目にしないとムリだったわけです。でも、さすがに10年後に、また山林保護を今度は藩主の側から持ち出されるとは思ってなかったでしょうね。まあ、自分が山林を保護するためには陶工は追放すべきって印象を植え付けてしまったんだから、自業自得ではあるんですが…。

 でも、寛永14年(1637)の追放令の時との違いは、その時は山本さんVS.藩って図式でしたが、10年後の今回は、佐賀VS.江戸って図式ってことです。よって、この10年間で、佐賀のお城までは、窯業の重要性が認識されてきたみたいです。

 こうして、江戸藩邸から直接指令を受けた石井兵庫さんでしたが、結局、こんな無謀な徴税計画を国許では最終決着をすることができず、江戸藩邸に報告して、どうしましょうって藩主の裁決を仰ぐことになりました。当時、まだE-Mailはありませんが、正保4年(1647)12月26日にその返事が届いたのです。もう年末ですね。

 ところが、おっとどっこいという結論でした。山本さんを皿屋代官に任命して、山本案の計画実行の責任を負わせるというものでした。山本さんの考えた無謀計画なので、自分で責任取らんかいってとこでしょうね。まあ、山も大事ですが、何しろ1億3,798万円ですから、クラッともきますよね。ただ、取らぬ狸の皮算用じゃないですが、この時点では、山本案に賛同したのは、例の155人中半分の75人という計算の合わない窯焼きの半分だけなんですよね。さて、どうなることやら…。(村)

 

 

 

 

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