有田の陶磁史(209)

 あけましておめでとうございます。と言いつつ、昔と比べ、ずいぶん正月らしさも薄らいできましたね。かつては、自動車にまでしめ縄をしてましたが、最近ではしめ縄してる家すら少なくなってきました。落ち着いていたコロナもまた増えてきたようなので、皆さまくれぐれもご用心ください。くだらないブログですが、本年もよろしくお願いいたします。

 

 さて前回は、正保4年(1647)の山本神右衛門窯業再生計画案について、やるやる詐欺ではないですが、話すといいつつ、その前で終わってしまいました。今日は本当にやります。

 山本さんは、前年に銀35貫目だった運上銀を、ほぼ倍額の68貫990匁に高める計画を建てました。もう、すでに磁器は専業にしてしまってますし、陶工の数は変わらないわけですから、陶工にハッパを掛けて量産させたくらいじゃ、とてもじゃないが倍額にはできそうにありません。つまり、生産量的な改革では、とても追いつかないだろうということです。ですから、きっと他のいい倍増方法を見つけたんでしょうね。

 では、正保4年から近い過去の間に、窯業史上では、どんな変化が認められるのか?実は、この時期は、有田の窯業史の中でも、屈指の大変革の時期です。そうですね。キーワードは、中国の王朝交代と、海外輸出でしょうか。それから、“古九谷様式”ってのもいいかもしれませんね。

 寛永14年(1637)の窯場の整理・統合によって磁器の量産化に成功した有田ですが、この磁器には、ちょっと難点がありました。すでに触れたことがあると思いますが、中国風に作ってはみたものの、朝鮮半島出身の陶工ないしはその技術によって作るので、形状やできあがりの感じなどに、どうしても李朝っぽさが残ってしまうのです。まあ、腕以前に、原料の泉山陶石の性質から、そのままじゃ中国風の形状には作れないって事情もあるんですけどね。

 この頃の磁器は、現在では、一般的に“初期伊万里様式”として分類されますが、やはり本場中国の特に景徳鎮磁器などに比べると、はるかに見劣りします。当時、国内では磁器と言えば中国磁器が市場を席巻している状態でしたが、それと競合させるには、有田の磁器まだあまりにも非力だったわけです。

 ただ、当時はまだ磁器という素材そのものに付加価値がある時代でしたので、陶器よりは格上です。そうすると、有田で磁器の量産が可能になると、磁器そのものの普及が進んでない時代ですので、ある程度は需要を取り込むことができます。しかし、しょせんは“陶器以上、中国磁器以下”の隙間を埋めるニッチな市場向けに過ぎませんので、まだ経済力が今イチだった国内では、量産にも限界があったのです。いっぱい作っても、売るとこがないってことです。

 ところが、1644年に中国の王朝が明から清へと変わり、その前後の混乱から中国磁器の世界への輸出が困難になります。『酒井田柿右衛門家文書』の赤絵初リの「覚」などでも分かりますが、この頃には、長崎などには磁器の製法に通じた中国人が、それなりにいたことが推測されます。こうした背景の中で、1640年代の中頃、“古九谷様式”の磁器が開発されたのです。

 どう考えても、この後も長くなりそうですので、一旦ここで終わります。残念ながら、やっぱやるやる詐欺になってしまいましたね。(村)

 

 

 

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