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有田の陶磁史(236)

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 前回は、仮称“内山様式”の生産範囲などについてお話しました。最高級品を生産した南川原山にはあるけど、大川内山には原則なしってことでした。

 この後、大川内山ではずっと“鍋島様式”が作り続けられますが、もちろんずっと同じスタイルのものが作られ続けたわけではありません。構図や個々の文様、描き方などはずいぶん変化しますが、皿の場合木盃形で高い高台の側面に塗り潰し文様を描くことや、民窯とは一線を画す独特な裏文様を巡らし、高台内に銘を配さず、ハリ支えをしないことをはじめ、基本ルールは踏襲されます。そのため、すべて“鍋島様式”という様式の中で括られているのです。

 一方、“柿右衛門様式”の方ですが、こちらは商品として競争原理が働きますので、もう少し複雑です。以前お話ししたように、柿右衛門という名前が付けられたままですが、酒井田柿右衛門家だけが生産したものではありません。南川原山全体で作られたものです。そういう意味では、“南川原山様式”と呼んだ方が実態としては適切です。ただ、前回ちらっと触れましたが、民窯としては南川原山に次ぐランクの製品を生産した内山でも、一部作られています。一部とは言え、内山には窯がいっぱいありますので、割合としては低くても、製品の生産量としては多くなります。

 このように南川原山の技術の影響が内山に伝わるのは、生産品のランクの近さもありますが、もう一つ大きな理由があります。それは、南川原山と内山の技術はピュアさは違いますが、同じ南川原山に移転した“古九谷様式”の技術から分かれた兄弟みたいなもんだからです。技術の垣根が低いのです。そのため、“藍九谷”のところでちょっと触れましたが、必然的に南川原山で“柿右衛門様式”が確立する以前の変遷の様相も類似しています。

 つまり“内山様式”は、南川原山と比べ生産品の種類が破格に多いので一括りにすることは難しいのですが、ごくごく大ざっぱに言えば、南川原山と同様に時期とともに“古九谷様式”に近いものから、より“柿右衛門様式”に近い様相のものに変化していくのです。ただし、南川原山製品と比べると、同時期であれば、より“古九谷様式”に近い様相が残ります。そのため、以前伝世品中心の研究の頃には、有田の中での生産場所の特定まではできませんでしたので、同じ“柿右衛門様式”の製品でも、相対的に内山製品が古い時期に位置づけられることが多かったのです。

 ということで、本日はこのあたりまでにしときます。(村)

肥前陶磁の様式変遷図

内山の柿右衛門様式の碗(中樽一丁目遺跡)

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