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今日、なにがあった?(4) ~昭和34年10月11日の一枚

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4回目にしてようやく、投稿の日と写真の日付が一致しました。

昭和34年10月11日 有田陶磁美術館に「蒲原有明の碑」除幕式

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除幕式写真 館蔵(岩崎家提供)
写真左上に幕がかかっており、そこに「有田皿山にて」の陶板がみえる

有田陶磁美術館は昭和29年5月に美術館としてオープンしています。美術館の経緯についてはほかの機会に譲るとして、昭和34年に美術館横壁に、詩人、蒲原有明の「有田皿山にて」の詩碑が完成し、10月11日に除幕式を行っています。これは蒲原有明が明治41年4月~5月に九州旅行をした折に、有田を散策して書いた詩をもとにしており、詩碑は陶板に呉須で書かれています。陶板のサイズは縦約79cm、横1mとなかなか大きく、当時は30cm四方の陶板の制作がやっと、というころなので、有田窯業界にとっても大変な制作だったようです。

除幕式には蒲原有明夫人(蔵宿で酒造業を営んでいた西山健吾の三女キミ(喜美子))や孫を招待し、来賓の一人である中島哀浪(歌誌「ひのくに」主宰)は即詠の短歌二首を披露しています。また、詩人・評論家の野田宇太郎が有田商工会議所にて講演会を行っています。陶板に詩の一節を書いたのは、詩人・英文学者であり有明研究の第一人者である矢野峰人ですが、本人は当日の除幕式には多忙につき参加できず、祝いの言葉を詩友に託しています(その文は後述の特集記事に掲載されています)。

「有田皿山にて」の詩は、明治41年に佐賀から帰京した直後に「呉須のにほひ」と題して作られ、その後表題や内容も含めて何度か改められているようです。

おなじみの有田公民館機関紙「ARITA」の昭和34年4月25日の記事に詩碑建設についての詳細が記されています。それによると、野田宇太郎がゆかりの地有田に詩碑をたてるべしと西日本新聞紙上に紹介したことから多数の賛同を得て、具現化すべく何度も協議会を開いたということ、詩碑建設の場所については「建設当時は感興を呼んでみても時日の経過に連れて人々から忘れられ、おまけに環境を壊されるような各地の文学碑では困るという事で」有田陶磁美術館の横壁が選ばれた、と記されています。なお陶板は對山窯に制作を依頼しています。また12月25日の記事には、除幕式記念に一面の特集記事が組まれています。

余談ですが、有田陶磁美術館の外観写真は何枚かあるのですが、年代が写真に書かれていないと時代がわからないくらいあまり変わっていません。「有田皿山にて」の陶板があれば昭和34年10月以降の写真だな、と判別がつくくらいです。建設当初の「環境が壊されないように」という意思は守られているようで、私たちは「人々から忘れられないように」という意思とともに守っていかなければならないと思った次第です。
(永)H29.10.11

参考:「おんなの有田皿山さんぽ史」(有田町教育委員会 1998.3.31)

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