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有田の陶磁史(13)

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「有田の陶磁史」というタイトルながら、予備知識みたいな内容ばかりで、まったく本題にたどり着きません。まあ、その時々の思い付きなので、お許しください。
もっとも、本題に入っても、まっとうに話すと肥前の近世窯業の成立後有田が出てくるまでの道のりは、ずいぶん遠そうです。唐津焼の成立については、そのうち詳しく触れることもあると思うので、とりあえず、今回は有田の窯業の理解に最低限必要な要点をパパッと記して、有田の窯業に近づいておきたいと思います。

前に少し話しましたが、肥前には近世窯業のベースとなるような、既存の窯業はありませんでした。何もなかったところから、ある日突然、国内最先端の窯業地に変わったというところがミソです。最初に窯が築かれたのは、以前触れましたが、波多三河守親(ちかし)の城のあった岸岳(唐津市)の丘陵だと推測されます。そして、波多氏の領内の近隣の港である唐津から運ばれたので、唐津焼になったわけです。

技術的には朝鮮半島の李朝時代のもので、しかも現在韓国で知られている当時の窯体や窯道具とは少し系統が異なります。これは、別の視点で言えば、唐津焼の中でも、岸岳の技術は他とは異なるということです。何れにしても、このように、既存の国内窯業の技術基盤とは無縁で成立したのが、肥前の窯業の大きな特徴の一つです。大陸において、すでに完成されている技術がそのまま移植されたので、先進性が高かったのです。
窯業の成立年代については、文献史料など、はっきりと記されたものはありません。早くとも1580年代後半頃かと思います。かつては、中世以前まで遡るような説もありましたが、日本各地の発掘調査成果などから見ても、それはとても無理そうです。ただ、逆に1590年代前半頃の可能性は、考えとく必要はあるかと思います。

よく、波多氏のお城のあった岸岳の丘陵に窯場が開かれたため、波多氏の庇護があったとか、波多氏の文禄2年(1593)の改易に伴う陶工離散、いわゆる“岸岳崩れ”みたいな話しも、まことしやかに語られます。でも、まず間違いなくおとぎ話の世界でしょう。まるで根拠がありません。もっとも、美談やら悲話やらがあった方が、陶磁史的には面白いわけで…。“美しいやきものから、それを引き立てる美しい歴史背景を描く”。昔はよく使われた手法です。
ただ、実際にはそれどころか、波多氏の改易後に窯場が開かれた可能性だって否定できません。そうすると、今までの陶磁史研究はガラガラポンになってしまいますが、でも、まんざら絵空事というわけでもありません。本当は、こっちの方がクッキリスッキリすべての歴史がうまく繋がるんですが、現状では一つ二つ、ノドに突き刺さった小骨みたいなもどかしい資料があるので、もう少し検討が必要です。(村)H29.10.13

図1_1

図1 岸岳にある飯洞甕上窯跡(北波多村教育委員会〔現唐津市〕発掘調査時)

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