肥前の近世窯業の成立に関しては、よく、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役(1592~98)との関わりで語られます。かつては、“やきもの戦争”などとも例えられ、多数の陶工が連れ帰られた結果、朝鮮半島の窯業は壊滅したとも言われています。「まさかっ?」っていうのが率直な感想ですが、悲話を演出するロジックが、まるで前回の“岸岳崩れ”と同じです。
だって、朝鮮の役の際に、名護屋に連れ帰られたいわゆる被擄人は万単位だったと言われますが、その中でも鍋島家だけが陶工ばかり集めてきたということでしょうか?意味不明です。たしかに、九州を中心とする各地の大名が、茶陶作りなどのため、ごく少人数の陶工を連れ帰ったことは事実かもしれません。しかし、戦争に行って、最後は命からがら逃げ帰っているわけですから。それに唐津焼の場合は、朝鮮の役直後から、すでに生産規模がほかの産地とは段違いです。きっと多くの被擄人の中に、陶工をしていた人がたまたまある程度の人数混じっていたということではないでしょうか。
こういう人達は、とりあえず、名護屋に着くともう用はないわけですから、放逐されると自力で生きていかないといけません。言葉もしゃべれないし、耕作する土地も持たない人達です。まさか、日本人ばかり住む村や町に、すぐに溶け込めるはずもありません。陶工に限らず、集住して相互扶助しなければ生きる術がないのです。
技術さえあれば、そこら辺のタダの土くれを、立派な商品にできるのが窯業です。しかも登り窯は山に造るわけですから、地元民の集住する平野部である必要はありません。かくして、慶長の役の終結後、現在の伊万里市周辺を中心として、肥前の窯業地としての急成長がはじまったのです。
岸岳に窯場が築かれた頃、その窯業で生み出される製品は極めて先進的で、国内の最高級の施釉陶器に匹敵するものでした。ところが、いかんせん、同時に1基か、多くとも2、3基程度の窯しか稼働してなかったと推測されます。岸岳以外にもあったかもしれませんが、誤差のうちでしょう。まったくの新興の産地が、日本全国に名をとどろかせることは容易ではなかったのです。しかし、ほどなく同じ朝鮮半島系の技術の窯場が急増したのです。
そうなると、スケール・メリットがグイグイ活かされてきます。それでなくとも、当時の日本では最大級の規模を誇る登り窯で焼くわけですから、コストパフォーマンスが高く、国内の施釉陶器との差は開くばかりです。しかも、生産の効率性が高まり商品としての価格低下が図れれば、それによってさらに需要が喚起される好循環がもたらされるわけです。
こうして、一気に日本有数の生産地にのし上がったのが、肥前の近世窯業なのです。この好循環の到来により、いよいよ肥前の中で生産地域の膨張が起こりはじめます。これによりはじまった窯業地の一つが有田なのです。
何とか、有田までたどり着きました。無事到着できて、良かったです。(村)H29.10.20
図1 東田代筒江窯跡(伊万里市教育委員会発掘調査時)