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有田の陶磁史(237)

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 前回は、17世紀後半に内山地区を中心に生産されていた仮称“内山様式”は、適宜南川原山の技術・技法の影響を受けつつ、総体的には“古九谷様式”風から、線描きも細くなり、上絵の具の色調も淡くなるなど“柿右衛門様式”風へと、変化していくことなどをお話していました。ただ、 どっから見ても“柿右衛門様式”と言えるものは、割合的には多くありません。だから、様式名が付けられないんですけど…。だんだん複雑になってきましたね。でも、本当にメンドクサイのはこれからなんです。

“柿右衛門様式”は、1670年代に南川原山で完成したってお話ししました。もっと具体的に言えば、下南川原山ですが。それで、この南川原山というのは山全体で最高級品を生産する場所ですので、特有の苦労がありました。前回、内山でも一部“柿右衛門様式”が作られていたって言いましたが、つまりそこが困るところなんです。

 というのは、最高級品生産ということは、希少性があってはじめて商品の付加価値が保てるわけです。一つ一つが高価格でも売れるってことですね。ところが、生産規模が格段に大きな内山でそれを模倣されるようになると、価値を維持することが難しくなるわけです。ここまではご理解いただけるでしょうか。

 当然、その対策をしないといけないわけですが、さて、どうしたと思いますか?ここでは様式の変遷の概要を説明していますので、詳しくは触れませんが、ちょっと意外かもしれないことをしてました。まあ、これまでの陶磁史の研究上そうした発想がなかっただけで、現代のメーカーでは当然やってることだとは思いますが。

 実は、“柿右衛門様式”が完成して間髪入れず、まだそれがバリバリの主力の商品だった時期に、すでに次の商品開発を行っていたんです。それが“古伊万里様式”と呼ばれている種類ですが、最初は染付製品などで、“金襴手”と呼ばれる色絵に関してはもう少し完成が遅れて1690年代はじめ頃のことです。“柿右衛門様式”は、アンシンメトリー、つまり、非対称な構図を基本としますが、“古伊万里様式”は、逆にシンメトリーな構図を基本とすることに特徴があります。ただし、色絵に関しては“鍋島様式”の方が、民窯の“金襴手”よりも先に、シンメトリーな構図を完成してると思います。いずれにしても、アンシンメトリーからシンメトリーへと、発想としてはまったく逆なものを開発していたことになりますので、思い切った掛けですね。

 このように、常に新しいものを探り続けないといけなかったのが、最高級品生産の山の宿命なのです。ただし、もう一つの最高級品である大川内山の“鍋島様式”の方はちょっと事情が異なります。だって、売物じゃないので、競合相手ってものがないので。そうした意味では、お気楽ですね。でも、そうするとどういうことが起きるかと言えば、たとえば元禄6年(1693)の「有田皿山代官江相渡手頭写」には次のように記されます。現代文に訳すと、「献上の陶器が毎年同じもので珍しくなくなっているので、脇山である有田一帯の民窯製品でも良い意匠があるならば、積極的に取り入れて立派な焼物を作るように」ですって。ようするに、マンネリ化してるので、民窯製品の意匠を盗んででも何とかせんかいって言ってるわけですが、藩窯の陶工は今で言えば地方公務員ですから、そりゃあえてリスクなんて取るよりも手堅くやる方にベクトルは向くでしょうね。

 ということで、本日はおしまい。(村)

肥前陶磁の様式変遷図

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