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有田の陶磁史(239)

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 前回は、南川原山でせっかく“古伊万里様式”を開発したのに、“柿右衛門様式”と違って、結果的に模倣しやすい様式だったため、残念なことが起こりそうってことを話してました。さて、残念なことって何でしょう?

“古伊万里様式”が最初に南川原山で開発されたのは、1670年代って言いました。そして、ほどなく内山などで模倣されるようになるわけですが、何しろ、“柿右衛門様式”と違って、質を落としてたらその様式にならないってたぐいのものではないことがミソです。そうすると、“柿右衛門様式”のように、内山で一部だけ類品が生産されたってような甘っちょろい模倣ではなく、完膚なきまでに徹底的にパクられてしまうわけです。ついでに、生産規模が大きいですので、内山の中で独自に様式のバリエーションもグッと増えますし。と、これだけでも南川原山にとっては大事件です。でも、もっとショックな出来事が…。

 何度も言いますが、ここは様式の変遷の説明ですので、詳しくは後日に譲ります。簡単に説明しますが、1644年の明から清への王朝交代に伴う混乱以降、磁器の海外輸出ができずにコケてくれてた中国が、何と1684年に展海令を発して復活します。そうすると、従来オランダ東インド会社とともに有田磁器を海外へと運んでいた中国船は、当然自国産の磁器に切り替えます。そうすると、その分の需要は突然ゴッソリとなくなってしまうことになります。急にハシゴを外されたら困りますよね。かといって、窯業止めるわけにもいきませんし。

 高級量産品を生産した内山の製品は、主にオランダ東インド会社を通じて、ヨーロッパなどに運ばれていました。一方、中国船が運んでいたのは主に東南アジア向けで、これは主として外山の中・下級品の窯場で生産されていました。オランダ東インド会社は輸出を継続していましたので、つまり、中国が復活して一番困ったのは、中・下級品生産の山ってことです。

 従来、中・下級品生産の山の製品の顧客は、割合は正確には分かりませんが、海外と国内の両にらみでした。しかし、海外がスッポリなくなったわけですから、その穴埋めが必要です。そうすると、海外がなくなりゃ、国内向けを強化しなくちゃいけなくなるのは、当然の成り行きです。

 かくして、南川原山に端を発した、有田製品の大変身がはじまることとなったのです。ですが、まだ長くなりますので、続きは次回。(村)

肥前陶磁の様式変遷図

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