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伊能大図が有田にやってくる!!

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江戸時代に全国をくまなく測量し日本地図(正式には大日本沿海輿全図)を作った伊能忠敬が亡くなって、今年で200年になります。そこで、来る3月9日(金曜日)~10日(土曜日)にかけて「伊能大図パネル展」が、有田町教育委員会・有田町公民館主催で有田町内にある焱博記念堂・コンベンションホールで開催されます(詳細は下記のとおり)。

これは原図と同じスケールの複製パネルで九州から山口にかけての一部分ではありますが、長さ1m、幅2mのものが約60枚で、相当広いスペースがなければ一度に広げることができません。今回、伊能の出身地である千葉県香取市と友好関係にある佐賀県鹿島市(鹿島藩初代藩主鍋島忠茂公ゆかりの地であることから平成28年に友好都市協定を締結)が、3月末まで香取市所有のパネルを保管中ということで、両市のご協力のもとお借りできることになり、先週公民館と当課の担当者で鹿島市に下見に行き、鹿島市教育委員会の加田さんと協議をしてきたところです。

実は当館でも以前、「150年前の有田皿山ば 歩こう隊」という事業を実施し、これは伊能の地図ではなく、佐賀藩が制作した安政6年(1859)の「松浦郡有田郷図」を手に歩いて、150年前と変わった所、変わらない所を確認するというものでした。伊能測量隊はそれ以前の文化9年(1812)、同10年(1813)の2度にわたって有田地方を測量していますが、伊万里津から西地区の有田川添いの道を有田街道、また、塚崎(現在の武雄市)までを皿山越横街道と名付けています。この測量のあと、文政11年(1828)の大火で有田皿山はほぼ焼失していますので、伊能測量隊が歩いた町並みはその後形成され現在に伝わるものとはずいぶん違っていたのではないかと思われます。ついでながら、この時有田を訪れた測量隊の一人、箱田良助は函館戦争の首謀者であり、明治政府に登用され海軍の創設者でもあった榎本武揚の父親でした。

受け入れ側の様子も資料が残っています。幕府の測量隊がやってくるので星の観察ができる南北の見晴らしのよい10坪ばかりの場所の確保をしておくこと、宿賃や食事代などは払うが一汁一菜の他は無用などという先触の記事が「皿山代官旧記覚書」に記載されています。

何よりもこの伊能忠敬が凄いと思うのは、49歳で隠居した後に江戸へ出て、19歳も年下の幕府天文方・高橋至時に入門したその学びの姿勢です。還暦を過ぎて心身ともに加齢を実感し日ごと気弱になる身に対し、声なき声で鼓舞してくれる忠敬さんでもあります。
そのような意味でも、ぜひ伊能大図パネル展をご覧ください。(尾)H30.1.23

日 時平成30年3月9日(金曜日)~10日(土曜日)
展示時間 9時00分~16時00分 パネル展示説明 (1)10時00分~ (2)13時30分~
場 所焱博記念堂・コンベンションホール
入場料無料
講 師伊能忠敬研究会会員 馬場良平氏
準備するもの 筆記用具、靴下(裸足・タイツ・ストッキング不可)

     チラシは こちら(PDF:380.7キロバイト) 別ウィンドウで開きます

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