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陶業近代化のリーダー 江副孫右衛門誕生

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明治18年(1885)の今日、有田皿山に江副孫右衛門が誕生しました。周りの人々は彼のことを親しみを込め「孫エンシャン」と呼んでいました。

孫エンシャンは明治18年2月6日、父八蔵・母キクの長男として上幸平に誕生しましたが、母は孫エンシャンが小学校へ上がる前に亡くなり、母の妹マツが養母となって育てました。幼いころから優秀で、有田工業学校を卒業後、蔵前の工業学校(現在の東京工業大学)に入学。それを終えると有田に戻って父の窯を継ぐ予定でしたが、その窯が倒産。継ぐべき窯を失った孫エンシャンは創立間もない森村組系列の日本陶器合名会社(現 ノリタケカンパニーリミテド)に入社しました。そのころの日本陶器はディナーセットの開発にかけていましたが、ライバルである有田出身の孫エンシャンを入社させ、開発に関わらせることに難色を示す社員もいました。しかしながら、その不安を払拭させるだけの力量が孫エンシャンにはあったのだと思います。
戦時中のエピソードには軍の増産要求に対し、徴用工や動員学徒が主力ではこれ以上の生産は無理だし、粗製乱造は良心が許さないと突っぱねたために両者の関係が悪化して、孫エンシャンは昭和19年5月に全ての役職を降りたことがありました。当時は軍(国)の意向に反発することは命にも関わることだったと思いますが、技術者としての信念がそれを許さなかった、それほどまでに強い思いが孫エンシャンにはあったということでしょう。

その後、昭和22年4月に有田町長に就任しています。この時にも逸話があり、社を辞めてはいたものの森村系列各社のご意見番として多忙な日々を過ごしていた孫エンシャンに対し、幼友達が名古屋へ赴き、無投票と有田に居られるのは月の半分ぐらいなので、その穴埋めとして助役2人体制を条件に承諾を得たということです。

町長在任は2年8か月。昭和24年1月に当時、経営が揺らいでいた東洋陶器(現TOTO)の社長に就任しました。そこで町長の兼職は無理だということになり同年12月に町長職を辞任しました。在任中には有田の歴史の中でも大きな被害をもたらした昭和23年の大水害がありましたが、その復興にも尽力した孫エンシャンでした。(尾)H30.2.6

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       写真:23水の被害を視察中の高松宮と江副町長

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