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有田の陶磁史(27)

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「有田の陶磁史」というタイトルで、シリーズ化したのが昨年の7月。すでに半年が経過しました。ところが、いまだ有田は登場せず…。前フリにしては、なかなかの粘りです。まだ書き足りないこともありますが、さすがに看板倒れすぎもマズそうなので、ここいらでちょっと有田について触れてみようかと思います。まずは手始めに、有田に立地する窯業地の地理的環境でも、お話ししてみることにします。

有田町は佐賀県の西端部に位置し、西を長崎県の三川内町(佐世保市)、南を同じ長崎県の波佐見町と接しています。これに北に接する伊万里市とその北側の唐津市、東側に接する武雄市を含めたあたりが、肥前の窯業の中心地です。数え方によっても多少違いますが、この6市町だけでも、これまでに300か所以上の登り窯跡が発見されています。だいたい、肥前全体の8割くらいでしょうか。
江戸時代には、有田町と伊万里市のおおむね南半部は佐賀藩の本藩領で、武雄市は佐賀藩主鍋島家の親類同格に位置付けられた武雄鍋島家(もともとは龍造寺一族)領、伊万里市の北側と唐津市は唐津藩領、三川内町は平戸藩領、波佐見町は大村藩領でした(部分的に、他藩の飛地などはあります)。つまり、肥前の窯業は、それぞれの藩の産業だったと同時に、複数の藩にまたがる窯業圏を形成できていたことに、産業としての強さの源泉の一つがあったのです。たとえば、それぞれの時期の需要に応じて地域間分業が行われ、肥前全体としては、おおむねどのような需要にも対応できる柔軟なシステムが形成されていたのです。

以前も触れましたが、こうした肥前地域に広がる窯業技術は、それぞれが別系統のものではありません。岸岳(唐津市)や伊万里市周辺で形成された肥前スタイルの技術が、窯業の盛行とともに各地に拡散し、新たな窯業地として根づいたものです。
ちなみに、ご存じの方はご存じ、でも知らない方は知らないと思いますが、現在の有田町(ありたちょう)は、平成18年3月に、西有田町(にしありたちょう)と有田町(ありたまち)が合併して誕生しています(以下、西地区、東地区と表記)。もともとは全体が有田郷だったので、元に戻っただけの話しではあるんですが。

この有田町の登り窯跡は、これまでのところ66か所発見されています。ただし、これは窯場跡の数なので、実際には、一つの窯場で並行して複数の登り窯が稼働していた場所や順次造り替えが行われている場所なども珍しくないので、窯体数としては、軽く100基は超えると思います。
この中で、窯業地は東地区に集中しており、西地区は現代まで一貫して農業が主体の地域となっています。この西地区にも窯跡は残っていますが、広瀬山という地区を除けば、1630年代以前に操業した窯場に限られます。つまり、当初は主に西地区や東地区の西側に分布していた窯場が、後に東地区中心に変わっていったというイメージで捉えていただければ、当たらずしも遠からずというところです。(村)H30.2.9

図1_1
                     図1 有田町内窯跡分布図

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