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有田の陶磁史(28)

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今日では、もっぱら磁器の産地として知られる有田ですが、当然のことながら、窯業がはじまった当初は、陶器の産地でした。こうした肥前の近世陶器は、たとえ有田で作られようが唐津焼と総称されたことは、以前お話ししたとおりです。

ところで、有田と言えば、窯業の成立当初から、何となく大きな産地だったようなイメージを持たれる方も多いのではないでしょうか。でも残念ながら、それは大いなる幻想です。最初期の窯場は、わずか2、3か所くらい。別に悪意はありませんが、場末の陳腐な窯業地に過ぎませんでした。まあ、ほどなく6か所くらいにはなるんですが。以前、文禄・慶長の役の際に朝鮮半島から多くの人々が連れ帰られたことにより、肥前の窯業は、一気に急成長を遂げたことを記しました。当時の窯業の中核地は、現在の伊万里市周辺でした。しかし、生産が盛んになるにつれ、新天地を求めて、周辺の地域へと移動する人達が現れはじめたのです。その時、選ばれた土地の一つが有田です。1600年代だと思われます。

では、どういう人達が移住したのでしょうか?結論から言えば、文献史料等は皆無なので、まるで分かりません。ただ、どういった技術を持っていた人達かということは、窯跡の発掘調査などによってだいたい分かります。なので、そこから、移住した人達のある程度の陶工としての位置付けや、産地としての性格なども推測することは可能です。

ただ、これについて示すためには、少し窯詰め技法についてお話ししておく必要があります。製品の方は、需要により、たとえ本来の技術の自己否定になろうとも、いかようにもスタイルを変えてしまいます。あくまでも、生活の糧を得るための商品ですから。しかし、消費者の目に触れない製造現場の技術は、そうそう変えることはないのです。
肥前の近世窯業は、朝鮮半島の李朝時代の技術で成立しました。それ以前からの、国内窯業の技術基盤は皆無です。そのため、窯詰め技法も李朝と同じ方法が用いられました。具体的な窯道具については、後日詳しく説明したいと思いますが、皿などの場合、上級品はサヤ鉢と呼ばれる粘土製の器状の道具に製品を詰めて焼かれます。中級品はトチンやハマなどの焼台類に、一つずつ乗せて焼きます。そして下級品は、目積みして何個も直接重ね焼きされています。ちなみに、李朝では上級品生産窯では3つの焼き方が併用されますが、中級品の窯ではサヤ鉢詰めがなくなり、下級品の窯では目積みだけになります。
唐津焼にはサヤ鉢詰めは皆無です。ということは、肥前に導入された李朝の技術は、中級品以下のものであったことが分かります。(村)H30.2.16

図1_1

                  図1 肥前の窯詰め技法の種類

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