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深海墨之助誕生

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弘化2年(1845)の今日、2月20日(旧暦)に泉山の窯焼き・深海家に長男墨之助が誕生しました。前々回の江副孫右衛門の誕生より40年前のことでした。深海家は有田焼創業時のリーダーの一人、百婆仙につながる家で、父平左衛門、母タケの長男として生まれ、4歳違いの弟・竹治とともに、平左衛門のもとで深海家の焼き物作りにその才能を発揮していきます。

父平左衛門は彼ら兄弟に対し、明治3年(1870)ワグネルが有田を訪れた際に、辻勝蔵、平林兼助、山口勇蔵、西山孫一らとともに、その研究生になり新しい絵の具製造の指導を受けるように伝えました。その前年には京都の名陶家三代高橋道八が技術指導のため有田を訪れた際にも、「京焼のヘラの使い方や茶器の意匠などには学ぶべき点が多いので、辞を低くして教わるように」と息子たちを学ばせています。もっとも、平左衛門自身は五尺余の花瓶を窯出しする場面を道八に見せて「抹茶的陶工の度肝を抜いてやった」といわれています。しかし、これから新しい時代を背負っていくであろう息子たちには、時代に合った技術の習得を勧めた積極的な父でもありました。

明治8年には合本組織香蘭社の設立メンバーの一人として墨之助が加わりました。時に墨之助30歳。英気に満ち溢れたころでした。さらに翌9年(1876)には手塚亀之助、深川卯三郎らとともにアメリカ建国100年を記念したフィラデルフィア万国博覧会に参加するために渡米します。彼らの紀行文などは未発見ですが横浜港を出航し、一路サンフランシスコへ。その後鉄道でフィラデルフィアへ向かっています。出品・参加者の渡航費用は官費だったようですが、その他滞在中の宿料、食料その他雑費は一切自費であり、3人の品主に対し、1人の通弁(通訳)を同伴するようにとの達しがありましたので、致遠館出身の江副廉造(元佐賀藩士)を引き連れて行きました。

帰国後は深川との意見の相違から、墨之助や手塚らは袂を分かち精磁会社を設立しました。この折には泉山にあった深海家の工房を、上幸平・辻家工房の後に建設された精磁会社に統合したといわれています。それほどまでに精力を傾けた会社でしたが、墨之助が明治19年(1886)2月2日に41歳で逝去し、さらに川原忠次郎までもが明治22年(1889)1月26日に相次いで逝去したこともあって次第に経営が傾いていきました。現在までにこの深海墨之助の顔写真は確認されていません。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらぜひともご教示ください。

ところで、2月18日(日曜日)に嬉野市で佐賀県が主催する肥前さが幕末維新博覧会のプレイベント・リレーシンポジウムが開催され参加しました。長崎の女性貿易商・大浦お慶と嬉野茶について本馬恭子先生が講演されましたが、まさに近代日本の発展を支えた一つにお茶の存在があると実感しました。そして、当時の有田焼の発展にも尽くした起立工商会社社長で佐賀出身の松尾儀助は前述のフィラデルフィア万博にも渡航していますが、彼が最初に取り組んだのもお茶の貿易でした。そういうこともあってでしょうか、2017年に設立された新たなお茶の未来を生み出す試みとして、若いパネリストの方々が株式会社起立工商会社を設立されたそうです。(尾)H30.2.20

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            写真:深海墨之助墓碑

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