前回、肥前の窯詰め技法について、概略をお話ししました。皿などの窯詰めの際に、上級品はサヤ鉢に詰め、中級品は焼台に一点ずつ乗せ、下級品は目積みして重ね焼きするという3つの方法があるということです。ただし、唐津焼にサヤ鉢詰めは皆無です。つまり、導入された李朝の技術は、中級品や下級品生産のものであることが客観的に分かるのです。
この中で、目積み技法については、肥前全域で用いられた主流となるものとしては、「胎土目」と称される粘土丸めて目とするものと、「砂目」という砂を使うものがあります。その他、貝殻を利用するものや、陶石や砂岩などの石を利用するもの、胎土目の先端に砂を付着させる「砂胎土目」なども一部の窯場には見られます。
肥前の陶器生産では、「目積みしないものが主体の段階」から「胎土目積みを主体とする段階」、「そして砂目積みを主体とする段階」へと変遷したことが知られています。この変遷は、一つの窯場の中で窯詰め技法が変化したものと思われている方も多いのですが、それもありますが、主因はまた別のところにあります。各目積みを多用する生産地域の栄枯盛衰です。時々の肥前の中核的生産地域は、当然のことながら、相対的に窯場の数も多くなります。逆に、中核地から外れてしまうと窯場の数は減少します。すると、中核地は生産量も多いし、周辺でもマネする窯も増えるので、消費遺跡などの出土品では、目積みが変化したように思えるわけです。具体的には、目積みしないものを主体とする段階は岸岳周辺が中核であり、胎土目積みは伊万里市周辺、砂目積みは有田町周辺が中核になります。ただし、当初は生産量自体が限定的なので、目積みしない製品が大量に出土するような状況は見られません。
この目積みに関して、もう一つ、多くの方々が錯覚されていることがあります。段々新しい目積みなどの窯詰め技法が、開発されたのかということです。最初は目積みしてなかったけど、その後、新たな技法により胎土目積みが確立し、さらにその後、砂目積みがはじまった、とかです。
前回お話ししたとおり、肥前の窯詰め技法は、李朝そのものです。ということは、胎土目積みも砂目積みも、李朝の技術だと考えていいかと思います。では、李朝の技術が導入される機会はいつなのか。少なくとも最後は慶長の役の際で、それ以後、導入された形跡はありません。ということは、砂目積みは1610年代中頃から主体となりますが、技術が導入されたのは、慶長の役以前ということで、目の違いなどは、技術の導入時期差ではないのです。
実際に、伊万里市周辺の窯場では、胎土目積みと砂目積みが併用されている窯も珍しくなく、中級品と下級品の製品ランクの関係で、目積みしない製品も同時に生産されています。つまり、各窯詰め技法による生産量には偏りがあるため、各時期にどれが目立つかという違いなのです。(村)H30.2.23
図1 胎土目積み
図2 砂目積み