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今日、3月5日は深川六助さんと中島浩気さんの命日です

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今日、3月5日は有田焼400年の中で町の発展や歴史研究などで多くの功績を残された深川六助さんと中島浩気さんの命日です。六助さんは大正12年(1923年)、浩気さんは昭和30年(1955)ですから、その生涯には32年ほどの月日の隔たりがありますが、誕生は浩気さんが明治4年(1871)1月1日、六助さんは明治5年(1872)2月1日で、1歳違いでしたが奇しくも亡くなった日が同じでした。

共に白川生まれの白川育ちですから幼友達でもあったのですが、六助さんの長女であった星野房代さんは、生前、浩気さんのことを「毎日のように父を訪ねてきては二人で話し込んでいる姿を覚えていますが、幼心にもこのおじさんは何をしているのだろうと思っていました」と話してくださいました。そのころの浩気さんは星製薬の西松浦郡元売捌所の看板を掲げながら、陶磁史研究に打ち込んでいたころだったと思われます。当時のことを詠んだ浩気さんの句があります。
時雨るるや漁り暮たる陶窯の趾
寒い中に泥まみれになって、窯跡の調査に没頭していたであろう浩気さんの姿が目に浮かぶようです。

お二人の功績はこれまでに多くのことが語られてきましたが、それぞれの母親が外尾村の大庄屋・松村家の出で従妹同士という関係でもありました。六助さんは幼いころから神童と言われ、明治20年に有田小学校を訪れた当時の森有礼文部大臣に江越礼太校長から推薦を受けて上京し、森邸に寄宿して美術学校へ通いました。かたや、浩気さんは『ふくべの駒ごと』という自著の中で「私は子ども時分大の学問嫌ひで、小学校も十三才位頃止めて仕舞ひ」と書き残しているように小学校中退。しかしながら、独学で得たその博識ぶりは『肥前陶磁史考』ひとつを見ても明白です。さらには多くの俳句を詠み、戦時中の物不足時代には孫たちにみごとな動物や植物などの絵を描いています。

お二人のことは、有田陶磁史の研究や有田のすべてに関わる方々にとって決して忘れてはならない方々だと思いますが、六助さんは町内白川の墓地に、浩気さんは神奈川県の鎌倉霊園に眠っていらっしゃいます。ご冥福をお祈りする一日にしたいと思います。 (尾)H30.3.5

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写真:深川六助さんの墓碑(白川共同墓地内)

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