有田の成立期の窯場で、胎土目積み段階前半期の組成が認められるものには、天神森窯跡や小溝上窯跡、小森窯跡があり、加えて、山辺田窯跡にも少し見られることを、前回お話ししました。山辺田窯跡は、小溝上窯跡から北側にひと山越えたところに位置し、そこからさらに北に山越えしたところにあるのが小森窯跡です。
これらの窯場では、小溝上窯跡以外は、少なくとも1基以上の胎土目積み段階で廃窯となる登り窯が所在します。しかし、前半期の組成で終始する明確な例はなく、操業途中で後半期の組成に変化しています。つまり、ざっくりと1590年代後半~1600年代頃と推測している胎土目積み段階前半期の中でも、相対的に後半に当たる1600年代の中で窯業が成立した可能性が高いのではないかと思います。
実は、こうした窯場も、大別すると、技術的には2系統に分けられます。一つは天神森窯跡や小溝上窯跡、山辺田窯跡のグループ。詳細に見ると、当初は多少製品の器形などにばらつきはありますが、急速にひと塊の技術になっていきます。もう一つは、小森窯跡のグループ。グループといっても、有田の中には同じ系統の窯場は他にはありません。
小森窯跡は、目積みしない製品と胎土目積み製品が混在する窯場で、有田では唯一、終始灰釉系と透明釉系の製品が比較的明瞭に作り分けられている窯跡です。ただし、透明釉製品でも無文が多く、鉄絵は簡素に描くものが散見されるだけです。有田の他の窯跡とは皿類の器形的な組成などが異なっており、用いる胎土目も少し小さなもので、高台畳付の真下に配置します。これは畳付から少し外にずらした配置を基本とする有田的な方法ではなく、伊万里市の窯場などによく見られるものです。いくらか、小森窯跡の技術で、他の有田の窯場の技術を模した形跡はありますが、結局、有田的な窯場には変容できませんでした。
この小森窯跡は、技術や製品組成的には、胎土目積み段階前半期の様相を終始強く残すのが特徴です。しかし、伊万里色の強さを頑なに保守し続けた窯場なので、有田の他の窯場と年代的な前後を比較することは容易ではありません。天神森窯跡や小溝上窯跡と同じ頃に成立した可能性はありますが、あるいは、胎土目積み段階後半期に成立した窯場なのかもしれません。少なくとも、廃窯は、後半期の特徴もちらちらかいま見えるので、前半期で終わることは考えにくいと思います。
有田では、後に陶器生産の技術の中から、磁器が誕生します。しかし、それは天神森窯跡や小溝窯跡の技術系統からであり、小森窯跡の技術の延長上に磁器はありませんでした。この窯場の技術は、有田の中で普及することなく、小森窯跡の廃窯とともに終焉を迎えたのです。(村)H30.3.23
図1 胎土目積み段階の製品〔有田焼参考館の展示品〕
*左から、小森窯跡・原明窯跡・天神森窯跡・小溝上窯跡