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有田の陶磁史(34)

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有田では、おそらく天神森窯跡や小溝上窯跡の開窯によって、窯業がはじまったのではないかと思います。そして、ほぼ同じか多少遅れて小森窯跡や山辺田窯跡、やはり天神森窯跡や小溝上窯跡からは若干遅れて、小物成窯跡や原明窯跡などが加わったように思われます。少なくとも、現在発見されている窯跡の中では、胎土目積み段階の操業窯は、これがすべてです。まあ、正確に言えば、大皿など一部の器種だけに、胎土目が残る窯の例はあるんですが。でも、これはすでに砂目積みが出現した後の窯ですので、胎土目積み段階の窯とは言えません。つまり、小物成窯跡は天神森窯跡と同じ南川原皿屋の窯場ですし、同じく天神森窯跡のある丘陵の南西の反対側斜面に位置するのが原明窯跡です。また、以前も少し触れましたが、小溝上窯跡から北側にひと山越えたところが山辺田窯跡の位置する黒牟田皿屋です。要するに、天神森窯跡や小溝上窯跡の付近を中心として、周辺に新しい窯場が開かれはじめたのです。

こうして有田が少し窯業地らしい規模を持ちはじめる胎土目積み段階の後半期は、年代的には1600年代~1610年代です。また、多少窯場による砂目積みへの移行に時期差はあるとは思いますが、下限は10年代の中でも中頃です。需要の増大に伴う生産規模の拡大とともに、さらに新たな需要層の開拓に向け、目積みを伴う下級品の割合が急増する段階と言えると思います。特に有田のような元来からの下級陶器の生産地では、皿類などは、すべて目積み製品に変わってしまいます。

製品の大きな変化としては、灰釉と透明釉の明確な区別がなくなります。多少色調のばらつきはあるものの、基本は透明釉への一本化です。主体となる皿の器形は、縁を折らない小型の丸皿と縁を外側に折る折縁皿の併焼が基本となります。この丸皿と折縁皿の組み合わせは、胎土目積み段階前半期にもあったのですが、小型丸皿は灰釉、折縁皿は透明釉という区別がありました。ということは、原則的に折縁皿は鉄絵で施文し、小型丸皿は施文しないというルールがあったということです。そのため、下級品を主力とする有田などの場合は、実際には前半期はほとんど丸皿ばかりでした。しかし、透明釉に一本化されたことにより、施文のルールも崩れてしまいます。折縁皿に限らず、丸皿にも施文されるようになるのですが、鉄絵は口縁部の2~4方に簡素な文様を描くものが多く、前半期のような複雑な絵柄はほとんど見られません。

このように、透明釉に一本化される理由としては、一つは、効率的量産化の促進があると思います。しかし、前にもお話ししましたが、中核的産地から枝分かれした産地の技術は断片的であり、その中でも有田に移転した技術は、朝鮮半島南部の雑な白磁生産の技術と推測されます。白磁の釉薬なので、透明釉だということです。

こうして、主体的に下級製品の厚みが増すことによって、唐津焼全体に及ぶ雑器化の兆候が現れはじめたのです。(村)H30.3.30

図1_1

                図1 透明釉鉄絵丸皿〔小溝上窯跡〕

 

図2_1

                図2 透明釉鉄絵折縁皿〔山辺田窯跡〕

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