前回は、様式の説明を完結させるつもりでしたが、とうとう終わりませんでした。“古伊万里様式”の時代になって、それまでの様式差で差別化する時代ではなく、原則的に質差で差別化が求められる時代が訪れたことにより、高級品の生産を運命付けられた南川原山にとっては、なかなか多くの人にその差を認識してもらうことが困難になったって話をしてました。
もちろん南川原山では、それでも悪戦苦闘しつつ、“古伊万里様式”の範疇の中で、質差だけではなく、新しいスタイルの製品も模索しています。ところが、前にもご説明しましたが、“古伊万里様式”というのは、鍵のない金庫みたいなもんで、開けるの簡単なんですよ。つまり、盗難(模倣)を防ぐ術がないのです。南川原山の新製品の開発、内山での圧倒的数量での模倣のくり返しって悪循環。本当に、南川原山には不幸な時代が訪れたのです。しかも、だんだん工業力は上がってきますので、質差は小さくなるばかりです。
それでも18世紀の間は何とか粘ってたんですが、さすがに19世紀になると、ついに南川原山も力尽きます。他の山が焼成室が20数室とかバカでかい登り窯を使い、山によっては複数の登り窯まで築かれるような時代にあって、上・下の南川原山では、それぞれの登り窯の焼成室が、5室程度にまで減ってしまったのです。通常、登り窯は焼成室ごとに占有者決められており、一人の窯焼きが1室から数室所有していましたので、それぞれ最大でも5名の窯焼きしかいなかったことになります。
このように最高級品を生産した山にとっては“古伊万里様式”の時代は暗黒歴史なんですが、考えようによっては、これは内山も変わりません。だんだん質差は小さくなるわけですから、内山は内山で下からのプッシュのプレッシャーがあるわけです。
逆に、最下級品の山なんかも別の意味ですごいプレッシャーがかかってました。というのは、磁器の普及とともに、内山は従来よりも相対的に低ランクのその普及帯を狙ってくるし、そうすると中級品の山がその下に押し出されるわけです。そしたら、下級品の山なんかは、もっと下のそれまで磁器なんぞ使ったことのない人たちを開拓しないと生き残れなくなるわけです。そのため、18世紀も進むと、もっと技術力はあるのにそれを抑えて、かなり粗質なものを少品種大量生産しないといけなくなったのです。最後に残った、磁器でありさえすれば満足できる階層狙いですね。果たしてこの顛末はどうなったかってことですが、あくまでもここは様式の説明ですので、長くなるのでやめときます。さすがに在職中にそこまでは行き着かないかもしれませんが、もしその時代を説明する機会があれば、その時に詳しくお話してみたいと思います。
様式の説明の最後のシメとして、17世紀の概念上の完成形は“柿右衛門様式”という話をしましたが、“古伊万里様式”の概念上の完成形はいわゆる超絶技法とか言われる明治伊万里です。人も長い年月の間にはだんだん年を取って衰えが進みますが、“古伊万里様式”も同じで、徐々に技術的にマンネリ化してしまい、いいものを作り出す活力に乏しくなっていったのです。それを打破すべく一念発起して作られたのが明治伊万里というわけです。まあ、再び海外へと販路を広げた時期ですので、そうしたものが好まれたということも大きいのですが。
ということで、とりあえず、様式の変遷の話はこの辺りにしといて、次回からは“古九谷様式”の説明に戻りたいと思います。(村)
古伊万里様式”変遷後の早期の下級製品(広瀬向窯跡)
わざと質を落として新たな顧客開拓を狙った下級製品(広瀬向窯跡)
肥前陶磁の様式変遷図