文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

有田の陶磁史(35)

最終更新日:

前回までに、有田では最初期に当たる、胎土目積み段階の窯場をいくつか示しました。1)天神森窯跡、2)小溝上窯跡、3)山辺田窯跡、4)小物成窯跡、5)原明窯跡と6)小森窯跡だったと思います。今回は、それらがどういう窯場なのか、もう少し詳しくお話ししてみたいと思います。

1)天神森窯跡
1600年代~30年代までの窯場跡です。初期の窯場としては最も規模が大きく、これまでに10基の登り窯跡が発見されています。さらに、帰属が不明な物原もありますので、もう少し窯体の数は多いかもしれません。同時に複数の登り窯が操業していたと推測されます。
陶器だけ生産した胎土目積み段階に終焉する窯もありますが、磁器創始後の窯は、陶器と磁器が併焼されています。天神森窯跡と言えば、初期の磁器生産においては、最も上級品を多く生産した窯場として知られています。そのため、中国・景徳鎮磁器を意識した技法や製品が目立ちます。しかし、一方で陶器の方は、広い意味での茶陶類を除けば、ほとんど目立った特徴のない、ごくありふれたもので占められています。特に胎土目積み段階の陶器には、目立ったようなものは見られません。

2)小溝上窯跡
『今村氏文書』に、「…是ハ南川原同前ニ出来ル」、つまり、天神森窯跡と同じ頃に成立したと推定される、1600年代~30年代の窯場跡です。また、同書には「小溝山頭(やまがしら)三兵衛」の記述があり、有田の陶祖とされる金ケ江三兵衛(通称:李参平)が、リーダーを務めた可能性があります。ただし、三兵衛の有田移住は元和2年(1616)年とされるため、当初からここに関わっていたわけではなさそうです。
この窯場では、5基の窯体が発見されていますが、隣接する小溝中窯跡、同下窯跡も、もともと同じ窯場の窯と考えられるため、全部で7基になります。小溝上窯跡自体は、順次1基ずつの操業であったと推測されますが、途中、中窯跡、下窯跡とは併存していた可能性が高いため、最大3基が同時操業していたと考えられます。
ここでは天神森窯跡と異なり、最初に築かれた窯体の操業期間中に、すでに胎土目積みから砂目積みに変わっています。そのため、ごく素直に考えれば、一見、開窯が遅く思えてしまいます。しかし、この窯場の場合は、最初期には、以前お話ししたような胎土目積み段階でも前期の組成が見られますが、ほとんど明確な後期の組成を挟まないまま、胎土目積みと砂目積みが混在する組成になります。器形的にも、胎土目積み製品に類する砂目積み製品が一般的で、のちに砂目積み通有な器形に変化しますので、相対的に砂目積みの普及が早かった窯場と推測されます。
この窯場の場合は、天神森窯跡と異なり、陶器でも直径が40cm近くにもなる大皿など、大型製品の生産に特徴があります。また、目積みを多用する量産化の技術にも力点が置かれており、こうした特徴は磁器生産にも引き継がれて行きました。

というところで、残りは次回ということで…。(村)H30.4.6

図1_1
図1 小溝上窯跡(1・2号窯跡)近景

図2_1
図2 小溝上窯跡(1号窯跡)

図3a_1図3b_1

図3 胎土目積み段階の砂目積み折縁皿(小溝上窯跡)

このページに関する
お問い合わせは
(ID:1157)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.