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有田の陶磁史(37)

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今回も、胎土目積み段階に成立した有田の窯場の残り2か所です。これまで紹介してきた4か所の窯場は東地区(旧有田町域)にありますが、本日の2か所は西地区(旧西有田町域)にある窯場です。

5)原明窯跡

西地区の窯場ということで、一見東地区の窯場とは離れているようなイメージですが、実際には、天神森窯跡から南西にひと山越えたところにあり、南原地区周辺の窯場の一つとして捉えて問題ないかと思います。もちろん技術的にも同一です。
これまで7基の窯(A窯~G窯)が発見されており、1630年代以前の窯場としては、天神森窯跡や小溝窯跡などと並んで大規模な窯場です。
操業年代が明らかなA・B・G窯は、少なくとも廃窯時には砂目積み段階に移行しており、胎土目積み段階で終わる窯があったかどうかは分かっていません。明確な胎土目積み段階前半の組成は確認できておらず、後半に開かれた窯場である可能性は高いかと思います。

生産されている陶器に関しては、小溝上窯跡と同じように、大型の大皿なども見られ、皿の見込みに施文するものが多いことも共通しており、伊万里の藤の川内付近の技術が導入された可能性があります。ただ、有田の窯場では一般的な、口縁部だけに簡素な施文をするものも多くあります。

6)小森窯跡

小森窯跡は、広瀬地区にある窯場で、窯体はたぶん1基だと思われます。以前お話ししたことがありますが、有田の中ではかなり特殊な窯場で、製品の技術などについては、詳しくは本シリーズ(33)を再度ご確認ください。

ついでなので、ここで少し小森窯跡のような単発の技術の窯場の位置付けについて、触れておくことにします。肥前には単発的に窯場ができて窯業地として成立するものの、それが地域の後継技術として継承されず、そのまま終わってしまうような例も珍しくありません。当然、その地域でその窯場しか開窯しなかった場合、窯業地としてもそのまま短期で終わってしまうということです。
たとえば、そういう例として、現在は合併して武雄市になってますが、有田の東隣の山内町の場合。ここは、後に別の場所でまったく別の技術で窯業が復活しますが、当初は高麗窯跡という初期の陶器窯跡が成立したものの、続く窯場がなく、窯業地として定着しませんでした。

また、一見続いているような錯覚もしますが、波佐見町では下稗木場窯跡という胎土目積み段階の陶器窯が成立しますが、この技術は継承されず、あらためて砂目積み段階になって、有田系の技術で、畑ノ原窯跡などで窯業が復活しています。これと類似するのが、多久市などで、唐人古場窯跡という韓国風の割竹式の登り窯で窯業がはじまりますが、直接技術が繋がらず、胎土目積み段階にはまったく様相の異なる高麗谷窯跡などが築かれています。
窯業が続かなかったところは分かりやすいのですが、このように、ほぼ窯業地としては継承されつつも、技術の断絶がある例も珍しくないのです。有田の場合は、小森窯跡の技術は単発で終わってしまいましたが、これとは別に天神森・小溝窯跡系の技術が併存しており、後者の方が地域の継承技術として引き継がれたのです。(村)H30.4.27

図1_1

図1 磁器成立以前の窯跡分布図

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