有田の豪商展の時代
幕末から明治にかけて、有田を代表する商人であり窯元でもあったのが久富・田代両家でした。「肥前陶磁史考」には天保12年(1841)に長崎貿易を開始した久富与次兵衛昌常のころから、「久富の有田時代」と称されていたとあります。また、明治33年(1900)に亡くなった田代紋左衛門については「我有田が生める一偉人であった」とも。
今夏、九州陶磁文化館ではこの両家の作品や人物などに関する企画展を計画されていますが、有田偉人博覧会でもこの両家は外せないということで、連携して事業推進を行うことを話しています。
そこで、先週、九陶の鈴田館長と山本学芸員に同行し、中の原の久富家や幸平の田代家を訪問し、その後に久富家や田代家の墓参をしました。
有田焼は17世紀中ごろから一度、海外輸出ブームがあり、二度目の幕末がこの両家によるものです。田代家文書には万延のころと思われるもので、「与次兵衛の荷として長崎へ送っていたが、不自由なので田氏の名で納めたい」という趣旨のことを皿山代官の羽室雷助宛てに異国向陶器座の田代紋左衛門名で提出しています。おそらく、このころより久富家から田代家に輸出の主体が移行したのではないかと思いますが、鈴田館長と話す中で、明治4年に北海道で亡くなった久富与平さんのことを、大隈重信は長命であったなら三菱以上の事業を成し遂げただろうと言った、その「白眉の傑物」の存在をどう捉えるか、久富家の貿易、家業の終焉をいつと考えるかという話になりました。まだまだ謎は多く、研究が続きます。山本さん、よろしくお願いします。(尾)H30.5.14
百田さんに活けていただいた初夏のお花