過日、有田陶芸協会の皆様が有田焼の原料地を踏査されるということで、(伊)とともに同行させていただきました。20名ほどの名だたる陶芸家の皆様が、陶器市のお疲れもなんのそので、草むらの中に分け入っていかれました。最初は岩谷川内の原料地へ。ここは柿右衛門家文書の元禄三年(1690)の「土合帳」にも、岩谷河内の辻土、谷土などという文言で出てきます。ただ、その場所はよくわかりません。
また、大正時代には久富家の再興蔵春亭で使われたといわれ、『わが家の歴史』昭和47年刊には「此磁石産地は大谷(注:大谷溜池)に向って左方大神宮山腹にあり、猿川に面したる観音堂裏のピッチストーン脈に接し其礦脈の一部露出せるもの」とあり、さらに「猿川に面せし礦脈は東北に向って走り、巌頭古き鶴嘴の痕を見る、脈に従って進めば倒石あり。排水溝様のものあり下手に向って白色の小石多量に棄てあり山脈の一部中断され、茲にすくなくとも百年近く採掘されしなる可しと断ぜり」とあって、陶石の存在を示しています。残念ながら、今回の踏査ではっきりと確定はできませんでしたが、少なくとも観音堂の裏手あたりであることは確かだったようです。
その後移動して、広瀬地区にある有田町史跡の龍門磁石場跡へ。ここは龍門ダムを囲む道筋から九州自然遊歩道が延びていて、そこから約250メートル登った所にあります。いにしえの原料地の様相を呈した風景を見て、皆さまはこの石を焼いたら青磁になる、いや釉薬の原料でもあったかもしれないと専門的な話が飛び交っていました。(尾)H30.5.22