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有田の陶磁史(41)

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前回は、砂目積み段階の代表的な皿の器形である、溝縁皿の話しをしました。有田周辺で作られはじめ、それが磁器とともに周りの窯業地へと技術が移転したこと。また、陶器の専焼地でも、当時の肥前の中核的な窯業地に成長した有田の最新の陶器の器形を模倣したことなど。そして、その結果、胎土目積みしたり、鉄絵を施したりなど、本来の溝縁皿のルールにのっとらないものも現れています。ということは、一般的に胎土目積みの製品だから古く、砂目積みの製品だから新しいとか言われますが、確かに流行した順番としては正しいのですが、個々の製品を比べる場合必ずしも正しいとは限らないので、窯詰め技法だけで判断するのはちょっと危ないかもしれません。

実は、溝縁皿という器形自体がどうして誕生したのか、今のところよく分かりません。当時というか肥前に先行して、同じ施釉製品として美濃でも折縁皿と称される溝縁になった皿が生産されているのですが、それと関係あるのかどうかも分かっていません。

ただ、砂目積みの透明釉皿の技術的な原点は、おそらく、朝鮮半島・李朝の下級白磁です。朝鮮半島の中でも、地域によって目積みの方法は異なっていますが、肥前とよく似た目積みが見られるのが、韓国南部の慶尚道や全羅道あたりの製品です。このあたりの白磁は、近くで磁器質の原料が取れるところでは磁器質のものもありますが、大半は炻器質というか、現代の日本的な分類では陶器に区分されるものです。陶器に分類される磁器とは何だかややこしいですが、このあたり関係については、ずっと以前記したことがありますので、そちらをご参照ください。また、砂目積み段階になると、高台まで施釉した皿が比較的多く見られるようになりますが、これも陶器ではなく磁器の技術が元になっているからです。

肥前に陶器の技術が入ってきたのは、文禄・慶長の役(1592~98)に際してですが、佐賀の鍋島軍も文禄の役の時には、加藤清正などとともに二番隊として出陣しており、慶長の役の際には毛利秀元率いる右軍に属していました。文禄の役では二番隊は現在の北朝鮮の咸鏡道方面を任され、一時、豆満江を越えて現在の中国の満州にまで攻め入っています。しかし、慶長の役の際には、主に現在の韓国南部に滞在しています。釜山広域市の金海国際空港にもほど近い場所には、鍋島軍が拠点とした金海竹島城跡が残っており、現在では、墓地として利用されていますが、石垣の跡などが往時をしのばせます。

こうした鍋島軍の動向から推察すると、砂目積み段階の有田の技術は、文禄の役というよりも、慶長の役の際に入ってきた可能性がより高いのではないかと思われます。ただ、肥前では、すでに文禄の役に由来する技術の製品が作られていたため、その色が現れるまでに少し時間がかかったのかもしれません。しかも、有田に移転した技術は、以前もお話ししたとおり中核地と違い朝鮮半島の多くの地域の技術の寄せ集めではなく、その中の断片的な技術ですので、比較的色が出しやすかったこともあるのではないでしょうか。

今回は、あまり話しが前に進みませんでしたが、時々の思い付きで記してますのでご容赦ください。
(村)H30.6.1

図1a_1  

図1a 有田の砂目積み溝縁皿〔左〕と韓国の砂目積み白磁皿〔右〕(内面)     

図1b_1

 1b(外面)

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