江戸時代、この地を支配していた皿山代官所がいつごろ始まったかはよくわかりませんが、初代の山本神右衛門重澄から最後の代官百武作右衛門(作十)まで、現在判明している代官の数は40名ほどです。ただ、初代の山本神右衛門以降、海外貿易などで有田皿山が最も盛んに窯の煙を上げていただろう時代の代官はよくわかりませんが、今後増える可能性はあります。今後の調査に期待するところです。
ところで、明治期に活躍する久米邦武、江藤新平、百武兼行らの父親は皿山代官もしくは代官所の役人であったといわれています。特に、久米邦武の父邦郷について後年、邦武が書き残している文章に次のようにあります。
「余が父は儒学を騃薬(ガイヤク 愚かな薬という意味か)と看做して、余が読書熱を冷まし、実務に心をよせしめんとするにあり。然れ共、余は才智を発達さするには、古の聖師賢友に就より外に其便りはなしと信じたる反動力の衝突により、斜に史学研究の方針を取りて走りたつなり。教育は親子の間も自由ならぬものなれど、迂闊を警めて経済に注意する要点は実に父の誘導指示に因るものなり」として、歴史家として成長していく過程にあっては、実務家であった父を反面教師としながらもその影響が大きかったと述べています。面白いことに、後に東京大学や東京専門学校(現在の早稲田大学)の教授を勤めたほどの歴史学者でありながら、息子桂一郎には小学校だけの教育しか受けさせませんでした。もちろん、その後桂一郎は画家として大成していくのですが…。
代官所はもともと、大木村にあったとされ、のちに白川山に移転していますが、その年代は享和元年(1801)、天明四年(1784)あるいはそれ以前の寛保3年(1743)など諸説ありますが、
以前、古文書教室の講師をお願いし、有田の歴史にお詳しい前山博先生は、海外貿易を盛んに行っていたころには有田皿山の中心地であった白川に代官所はあったのではないかと話されていました。
いずれにしても、皿山代官所には年代によって差はあるものの20人から30人ほどの役人が詰めて、皿山の支配を行っていたものと思われます。(尾)H30.6.4
百田さんの生花、紫陽花が清々しい感じ~