前回は、磁器分類の変遷についてまとめを話してました。まずは、昭和初期までに、生産地別に“古九谷”、“柿右衛門”、“古伊万里”、それから“鍋島”という区分が定着しました。ところが、もともと製品のスタイルの違いは産地の違いというところから出発したもののはずですが、あくまでも、生産地別の区分ですから、厳密に言えば、製品のスタイルの類似性は分類とは関係ありません。そのため、たとえば“古九谷”として定着した磁器の範囲がだんだん広がっていき色絵だけでなく染付や青磁、瑠璃釉をはじめいいものは何でも“古九谷”という時期もあったのです。でも、結局、あまりに欲張り過ぎて墓穴を掘ることになったのですが…ってとこで終わってました。
昭和30年代になると、ヨーロッパなどへの輸出品が広く知られるようになり、また買い戻されることも多くなりました。さらに、窯跡の陶片に目を向けられることも多くなりました。すると、小規模な産地なのに、ヨーロッパに“古九谷”がたくさん輸出されているのは変って話や、有田の窯跡から採集される陶片の中に“古九谷”の素地があるってことなどが示されるようになったのです。こうしたこともあり、製品のスタイル差の要因は実は産地の違いではなく、生産時期の差ではと考えられるようになったのです。ただ、“古九谷”の産地論争などはまだ引きずったままでした。そのため、一度産地という概念をすっかり取り払って、単純に製品のスタイル別分類にすることにしたのです。しかし、ここで困ったことがありました。すでに各名称が広く定着していたのです。そのため、仕方ないので、名称はそのまま、後ろに“様式”の語を加えて区別することにしました。ですから、いかにも意味ありげな名称ですが、各様式名に特に意味はありません。
さらに、窯跡の陶片から、“古伊万里”の中に古そうなスタイルのものがあることなども言われるようになりました。そのため、“古伊万里”から分離・独立したのが“初期伊万里”です。こうして藩窯製品である“鍋島様式”を除く、“初期伊万里様式”、“古九谷様式”、“柿右衛門様式”、“古伊万里様式”の順に一列に変遷するという様式変遷が完成したのです。
そうした一列変遷が定着して平成の前期まできたのですが、その頃になると、研究も大きく変わってきました。美術史主体から考古学主体にガラッと変わったのです。
ということで、残念ですが今日も終わりませんでしたので、続きはまた次回ということで。(村)